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見たものと、読んだもの

2016年の美術鑑賞振り返り

今年は予定していたことができない以上に、予定外の美術鑑賞ができて、全体としてはとてもよかった年だった。なんといっても、パリとロンドンに行くことができたので。

 

パリ:ルーブルオルセー美術館

これは記事にしていなかったので、簡単にふれます。

別格:サモトラケのニケ @ルーブル美術館

ニケはいつみてもニケなので、過去記事にて。

 

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#20200202: 過去記事がうまく貼れていなかったので貼り直した。

 

刻々とかわる陽光のなかで、刻々と表情を変えるニケに寄り添うのは、とても幸せでした。

Marc Chagall/シャガールの天井画(1964年) @パリオペラ座

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1875年に竣工したガルニエ宮に、1964年にシャガールの『夢の花束』を天井画としてつけたもの。100年ちがうというのに、非常にしっくりきていて、キンキラキンなのに優雅という息を呑むような組み合わせでした。

7月28日 - 民衆を導く自由の女神』(1837年)

Ferdinand Victor Eugène Delacroix / ウジェーヌ ドラクロワ @ルーブル美術館

これもロマン派か。そういう区別でみていなかったので、調べるとおもしろいね。

いわずとしれた名作なんだけど、一般に知られているのはこの撮影だとおもう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a7/Eug%C3%A8ne_Delacroix_-_La_libert%C3%A9_guidant_le_peuple.jpg

シワが縦1/3と2/3のところに真横にはしっていること。女神に目を奪われていたが、足元に屍体がたくさんあることに今回気が付いた。

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上三分の一は女神の顔と三色旗。

真ん中の三分の一は、生きる人間の顔。

そして下三分の一は、犠牲になった人たち。

これに気づけるのは、生の良さだなあ。

 

François-Édouard Picot François-Édouard Picot, L'Amour et Psyché (1817).

これ、びっくりしたのだけど、天使にちんちんがついている! 天使は無性だとおもっていたので、男性器が存在しているのもあるのだなと、感心してしまった。

L'Amour et Psyché (Picot).jpg
Par http://augustonemetum.ifrance.com/tableau.htm, Domaine public, Lien

パオロとフランチェスカ』(1855年)

Ary SCHEFFER (アリ シェーフェル)@ルーブル

ロマン派のこの作品は、今まで見たことがなかった。悲劇と官能とが合わさったこの作品は、物語の前後をいろいろ妄想させてくれて興味深い。下敷きはダンテ『神曲』第一編第二圏五歌。

1835 Ary Scheffer - The Ghosts of Paolo and Francesca Appear to Dante and Virgil.jpg
By アリ・シェフェール - [1], パブリック・ドメイン, Link

 

 

ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会

オルセー美術館

私を追いかけて東京の新国立美術館にもきたのだけど、それは見逃した。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9c/Auguste_Renoir_-_Dance_at_Le_Moulin_de_la_Galette_%28ex_Whitney_collection%29.jpg

やはり大作は生で見ると迫力がちがう。映画を自宅やモバイルでみるよりも、スクリーンでみたほうがすごい、みたいなもので。

番外。駅としてつくられたオルセーは構造がおもしろい

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たしかに駅っぽい。

もっとゆっくりしたかったな。今度くる機会があれば、最初に一番上にいって、ゆっくり下っていく。(印象派が一番上の階にあるのだが、時間切れでほとんどみられなかったのだ)

ロンドン

tate modernがすばらしかった。現代美術が好きになるとはおもっていなかった。丸一日、いや二日くらいかけて籠りたい。tate britainもよかった。ターナーをほとんど見逃すという、何をしにtate britainにいったのだという感じ。でもオフェーリアに会えたから満足。

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#20200202: 過去記事貼り直し

東京

いくつか見逃しがあるのだが、絶対行きたかった若冲展に行けたのでよかった。

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 ねこまたさんがキュートだった国芳を、ライバル国貞と並べるこれもよかった。

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ルーブルやオルセーなんかは、東京の特別展にくるとすればどれも目玉級が揃うというオールスターキャストすぎて困るわけですが、それ以外のものは、どう補助線をひくかというキューレーションが、ものすごく重要なわけで。ときにさりげなく、ときに挑発的に作品をならべていくキューレーターのみなさんの凄さに気が付いた一年でした。

ありがとう!

 

片渕須直『この世界の片隅に』/後追いで調べておもしろかったこと

GIGAZINEのインタビュー記事が充実している。以下時系列。

クラウドファンディングをしていた2015年5月。

gigazine.net

 2016年11月11日、公開直前インタビュー。

gigazine.net

2016年11月12日の公開直後の講演

gigazine.net

ブラックラグーン』は好きな漫画であり、アニメなのだが、監督が一緒だとはおもっていなかった。タッチはぜんぜん違うしね。原作漫画の良さをうまくすくいとったという意味だと同じかもしれないけれど、それだとぼんやりすぎる。

どっちかというと、『この世界の片隅に』は日常系四コマ漫画っぽいかもしれない。

これくらいの小さな物語のほうが、いまはわかりやすいだろうなあ。

戦争とは何か、というのを真正面からとらえるのはとてもむずかしい。

「わしら国民は軍部に騙されていた」史観も、「生き残るために戦わざるを得なかった」史観もある。侵略した側でもされた側でもある。どちらの一面を強く感じる立場にいたかで、どちらが正しいとおもうかは変わってくる。当時に生きていたら、自分がどちらに与していたのか、正直わからない。後知恵ならいくらでもできるけれど。

日常系でいけば、生活描写という事実を積み重ねることで、世界観を構築できるから、観客にとっても世界に入って行きやすい。だからこその、すさまじい考証なんだとおもう。

『東京ゴッドファーザー』で描かれたように、実写だとエググなりすぎるかもしれないものをアニメで中和するというのも、受け入れやすさだとおもう。

しかし、ガンダムエヴァを生んだような、何かしらの系譜になるかどうかといわれたら、うーん、やはりこの作品はこのまま特異点のまま終わっていきそうな気がする。

もしやれるとしたら、水木しげるの南方戦線の話をアニメ化するくらいかね。

"Thin Red Line" とはまた別の味の何かができるとおもうのだけど。

 

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海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』テレビドラマ版も合わせて

ガッキーがかわいいだけのドラマと一部言われているのは知っている。

ガッキーはたしかにかわいい。

が、その絶妙なコメディエンヌぶりと、相方の星野源のコメディアンぶりに隠されて、けっこうディープな話をしている。

原作もまだ完結していないが、読みました。ガッキーのかわいさに寄りかかれない分、ぎゃくに普通の子だからこその悩みがみえて、こっちはこっちでおもしろい。

 

 

原作付きの脚本だと、いまこの人をおいて他にない野木亜希子。『空飛ぶ広報室』『重版出来』もすばらしかった。

 

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尺の長さに合わせてもちろん改変してあるのだけれど、原作の一番すくい取りたい部分をきっちりテレビの形に掘り起こす。一本の木から掘り起こす仏師のようだ。

 

さて、この作品で出てくる単語で、じつは一番解釈に苦しむのが「小賢しさ」だ。

小賢しさというのは、どうしてそう思うようになるんだろうか。

小賢しくしようと思って、小賢しく振舞うひとはいないとおもうのだが。

少なくともみくりは、ひとを見下したり、マウンティングをしたくて「小賢しく」振舞っているわけではない。そこは「意識高い系」や「能ない鷹が爪だしまくり」な見下しとは違う。いわば大きなお世話の一種なのだと思うが、それが裏目に出る。

でもそれは、男女共同じだろうにとおもう。

なんとなくだが、作者は「女子供はだまってハイハイいってりゃいいんだ」というやつに長く晒されて、意識的にか無意識的にか、若い女子が合理的ないし論理的なことを言うということに対して、(特に大人の)男は見下して「小賢しい」というものだ、というのがあるんじゃないかという気がする。

そのわりには、平匡さんのように、ステレオタイプとはちょっと違ったキャラクター造形をするからおもしろい。

原作は完結していないが、どう完結させるんだろうね。たのしみ。

片渕須直『この世界の片隅に』2016/原作:こうの史代

この映画を語るようなこたぁ、わしにゃぁ、ようせんのよ。

広島生まれ広島育ち、呉に親戚がいて、祖母とだいたい同じ世代のすずを、他の映画のような感じで、他人の物語としてみることができんけぇね。

 

田舎のうちで、鴨居のあたりに掲げてある白黒の写真を見て、ありゃあ誰ねぇ? いうて、みんな微妙な顔をしながら、ご先祖さんよいうてから、原爆で死んだんよいう話を、自分の目で見たり聞いたりしよったら、なんとなく触れちゃぁいけんような、なんかがあるんじゃな、いう下地はできるんよ。

原爆教育いうんは、小さいころから学校でもされる。原爆資料館も遠足でいったりするしね。今のは二代目じゃけど、前の資料館はもうちょっとえげつないくらいの展示じゃったし。わしらが遠足でいくころは、小学生でもみれる程度にしとってくれたらしいけど、ほんまの最初は気持ちがわるぅなってもどすひとがおるけぇいうて、バケツが置いてあったそうなけぇ。『はだしのゲン』も含めて、ぶちショックをうけるよね。

そういうショックを描いた映画じゃない。

ほんかわしたような絵にゃぁ違いないけど、ものすごう足で調べて、圧倒的なリアリティを封じ込めてあるいうんは、ようわかる。

呉もほんまにあんな感じ。急な斜面を段々に削った土地に、家やら墓やら畑やらができとって、人間がへばりつくように住んどる。原爆雲がみえたいう話も、聞いたことがある。

今の広島にしても、建物は近代的になったいうても、市内の川は変わらん。

ブラタモリ』のタモリじゃないけど、川と道は変わらんけぇ、あそこのあの街のあのあたりいうんが土地の記憶として続いとる。

それをタイムスリップして、小さいころから写真で見て焼き付いとる、被爆前の広島の航空写真や、のちに原爆ドームとして有名になる産業奨励館が立っとる姿をカラーで動いとるのをみたら、もうわしゃあやれんかったよ。この街が八月六日にぁ、ああなるいうのが、もうわかっとるんじゃけぇ。あそこにおった普通のひとらがどうなるか、知っとるんじゃけぇ。

それでも見つづけることができたんは、すずの、そしてその声をあてた、のん、の演技じゃったようにおもう。そのままみたらつらすぎるけど、今でいうたら天然でぼーっとしとるすずさん視点でずっと描いてあるけぇ、変な戦争反対、原爆反対いうような、そういう大きい話にならんかったんが、わしにとっちゃ、ほんまによかった。

この映画をみて、おおきな物語として何かを決意するひとがおるかもしれんし、ただの娯楽としてみて、ええ映画じゃったね、いうて忘れていくひともおるじゃろう。

でもわしは、何があっても日々をなんとかできれば楽しく生きていくいうんは、生き方次第のことじゃいうんと、どんなに人間関係やらで苦しぅても、日は照り、月は欠け、トンボは飛び、たんぽぽは綿毛をつける、この世界の上での話なけぇ、変に地に足がついとらんところでしかものを感じられんようになったらいけん、いうことが印象に残った。

すずさんもあのまま生きちゃったいうても、もう老衰で亡くなっとる歳じゃろうおもうけど、広島で拾った子供やら周作さんと、貧乏かもしれんけど、幸せな家庭をきずけとったらええね。

新井素子『……絶句』1983年早川書房(2010新装版)

新井素子作品の中でいちばん好きな作品。

2010年新装版を底本にしたKindle版が出ていたので、『星へ行く船』の余波で購入。

…絶句〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

…絶句〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)

 
…絶句〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

…絶句〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

いまとなってはNHKラジオドラマ版と原作である小説版のどちらで最初に読んだのかは判然としない。

今読むと、高校生とか大学生が書いた話としてとても優れているなあと感心する。

それは自分よりもちょっと年上の作家が、世界をその視座で見せてくれるという意味で、とても気持ちいい、ちょっぴり大人の世界だった。

もちろん中年になった今から振り返ると、世の中はそうは動いていないよ、なんてことはあるのだけれど、それはそれ。

歳をとり、新しい世界の扉を開くことへの、ほんの少しの恐れと、それを圧倒的に上回る好奇心に満ち溢れている、青春時代のポジティブサイドが、行間にあるというのがすばらしいのだ。

読み始めると、十代にもどって楽しめた。

 

物語の中身を書くのはむずかしい。

小説家新井素子が主人公で、彼女が作り上げたキャラクターたちが「事故」で現実に出てきてしまう。

キャラクターたちはとあることに憤り、行動を開始する。

事故の収拾のために、「加害者」が駆け回ろうとすると……というドタバタSFジュブナイルコメディ。

 

と要約しちゃうには、ぼくのなかでは無理がある。

それは、流れと設定をなぞっただけだからだ。

 

通りすがりのレイディ』が、”誰が従容として運命に従ってやるものか” を描いた作品だとすると、『……絶句』は

「あたし……新井素子といいますけれど……あたり、自分の名前を単なる個体識別の道具にしたくないんです」

 という矜持と、

「あたし、この地球って星が好きよ。あたし、この世界が好きよ。そして……あたし……

あたしが好きなんだからねっ!」

という、自己と世界への肯定が、この本のキモだとおもうし、そしてそこにぼくはものすごく心励まされながら読んだのだ。

矜持だけだと、ただの鼻持ちならないひとになってしまうことがある。

しかし、その矜持が、ポジティブな、善な、利他的なものをベースに構築されていたならば、これほど痛快なものはない。在りし日の少年漫画の主人公みたいなカタルシスが約束される。

あんまり明るい青春時代ではなかったので、何かしら「生きていていいのだ」と思わせてくれる作品が、ぼくには必要だった。

暗い嫌な現実があっても、総体としては明るく楽しい今と未来があるかもしれない、という近視眼的になりがちなところを、いい意味で引きの位置においてくれたんだとおもう。

今ももちろん、楽しいことばかりが起きるわけではないが、世界の楽しさを思い出すには、そしてそれをキラキラとした宝石のようなむかしの思い出として思い出すには、とても素敵な物語だった。

あまりに個人的体験と結びついているので、あなたにとっていい小説かどうかはわからない。小説技法としては飛び道具がいくつか出てくるし、30年前のジュブナイル小説だから時代感覚も合わないかもしれない。

それでも、もしも御縁がありましたら、いつの日か、お手にとってご覧いただきたい小説ですね。