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見たものと、読んだもの

水野仁輔『幻の黒船カレーを追え』小学館2017(kindle版)

これは幻の黒船カレーを追った、旅行記である。

追うのだから、物語の駆動は「見つかったか」「見つからなかったか」の試行錯誤の積み重ねだ。ミステリーで、「誰が殺したのか」「なぜ殺したのか」を軸に物語を駆動させるのと同じである。

これはしかし、ヘッドフェイクだった。

幻の黒船カレーを追え

幻の黒船カレーを追え

 

「カレーは、インド発祥。イギリスの東インド会社をへて、日本に入ってきた」という定説の裏を取ってみようとしたら、全然確固たる証拠がないことに愕然とするところから、話が始まる。

私も、全く疑っていない定説の裏が全然撮れていないというのは衝撃的だった。

舶来には違いないので、港をめぐる。推理はできるが、確証は得られない。

では、会社を辞めてロンドンに三ヶ月滞在してみる。ロンドン、パリ、ベルリン。

状況証拠は見つかる、しかし決定的なものはない。

探偵のように細かく細かく、いろんな人の手を借りながら、探していく。

 

オチは落ちていない。しかし、そこがいい。幻の黒船カレーに出会う為に動いてきたことを試行錯誤を積み重ねていく過程こそが面白い。学術書ではないので、個人的な、場合によっては取るに足らないことも書いてある。それが伏線になるときもならない時もある。エルモア・レナードではないからしょうがない。人生の出来事の全ては伏線として解消はされない。

著者が出会ってきた理不尽な現実を追体験するのが旅行記の楽しさである。

その楽しさには、多くの苦味が混じっているのが、大人のカレー味である。

そして、著者のカレー人生は続く。著者がサラリーマン生活に別れを告げて、カレーに人生を捧げるという、一つの宣言文とも読める。

そこまでカレーには興味はなかったが、カレー熱にちょっとおかされつつあるかもしれない。

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国立新美術館開館10周年 ジャコメッティ展 @国立新美術館

ホムンクルスリエーターとしてのジャコメッティ

作家の意図とは違うことは、館内の説明文でもわかるのだけれど、もうそのように見えてしまうものは、私一人の勝手な感想として以下を持ち続けることにする。

私にとっては、あれは泥人形なのだ。ホムンクルスなのだ。

ジャコメッティが召喚したら、泥の中からまっすぐ立ち上がってきたんだね。

表面のもしゃもしゃが、泥がゆっくり垂れて行くようなのは、ナウシカ巨神兵のような。それが時が止まって固着してるの。

男や女に見えるけど、何か話すのかわからなくて。でもこいつらは、何かのきっかけで動き、話し始めるんだね、きっと。

ああ、今あなたが生まれてきている、そいう感じがして、ニヤニヤしながらみてました。

素晴らしいにもほどがある。

『小像』は、プロトタイプで小さく作った体高5センチくらいのもの。

『林間の空地、広場、9人の人物』は地面という面から色々な大きさのホムンクスルが生えてくるところ。少しずつ大きいのも作られてくる。

ヴェネツィアの女』はボーリングのピンみたいに10体が三角に配置されているのだが、それを遠くから見てみると、観覧者も像も全部鉛直に立ち上がっているので雨後の筍のようである。我々もホムンクスルかもしれない。インタラクションのある現代芸術ちっくである。写真撮りたかった。配置はYouTubeをご覧あれ。

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みんなちょっとずつ異なっていて、そこらへんも生き物的感覚がある。

 

 《女性立像Ⅱ》でかい。
照明の当て方もかなりセンスいい感じ。くどくはない程度に印象的。

面影が銀河鉄道999のクレアさんっぽいという超個人的な感想。

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<<歩く男I>>

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その他

シュールレアリズム時代のジャコメッティで好きなのは、キューブ。

立方体では全くないのだが、何か心地よい。室内というよりも、日本庭園に置いておきたい。枯山水もいい。

スプーンの女をみるにつけ、シュールレアリズムというよりも、アフリカとか土偶とかそういう生命力を感じる。

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人間以外

猫がかわいかった。この展覧会のアイコンの一つになっている犬と並んでいて良い。

一緒に写真を撮りたかった。

また、今回たくさんの作品を貸し出しているマルグリット&エメ・マーグ財団美術館の紹介動画で、猫がジャコメッティの彫刻に登ったりするのがかわいらしい。

 

 

ジャコメッティ展|企画展|展示会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, 

オースン・スコット・カード『エンダーのゲーム』新訳版 ハヤカワ文庫SF

エンダーは、果たして幸せになったのだろうか。 

エンダーのゲーム〔新訳版〕(上) (ハヤカワ文庫SF)
 

これも緊張と緩和で綴られる。絶体絶命の危機、回避、新たな危機。page turnerとしてとても優秀なできで、上下巻を一気に読みきってしまった。

主人公は「エンダー」というあだ名のまた年端もいかない天才の男の子。どこか遠い未来の話で、バグーという宇宙人との戦争状態にある。エンダーの天才性を見出した国際艦隊 (IF) の教官が、その天才性を花開かせるために、常に彼を窮地に追い込む。その才能は本当に花開くのか。ダークサイドに陥ることはないのか。そこにそこはかとない恐れを抱きながら読んでいった。

私は、エンダーに感情移入しながら読んでいった。その絶望に。ついには意図を感じ取り、どうあろうと賞賛されることもなく、家族とも切り離され、人からは憎まれるように誘導されていく、無間地獄、賽の河原。外から見たら最優秀の数字を挙げているのに、何という絶望と孤独。思春期にそれを味わったものは、それを劇的に追体験することになる。

彼は癒しを与えられたのだろうか。

エンディングは難しい。これが求めていた救済なのかわからない。しかしエンダーにしか取り得ない最後だろうと思う。

彼を執拗に追い込むグラッフ氏の視点で見たときに、彼は酷薄非情のサイコパスなのか、使命感に駆られた人格者なのか、どうなんだろうね。

映画は未見。軽く評を見る限り、割と原作に忠実っぽい。


「エンダーのゲーム」クリップ映像

予告編では、なんかエヴァンゲリヲンとの比較を意識しているような言い方がされているけれど、私は別に感じなかったなぁ。

エンダーは悩むし絶望するんだけど、シンジくんとはベクトルが随分違うので。

りょかち『インカメ越しのネット世界』幻冬舎Plus+ 2017

エモい(褒め言葉)

http://logmi.jp/216705

インカメ越しのネット世界 (幻冬舎plus+)

インカメ越しのネット世界 (幻冬舎plus+)

 

 

これが、マーケット的に正しい分析なのかどうかはわからない。鳥瞰性はあまりないかもしれない。しかし、急激に立ち上がる「自撮り」システムの只中にいる筆者のエモーションが、この本には詰まっている。2017年のこのマーケットの一つの虫の視点として、記録すべき本。

 

これは、自撮りのやり方を教わる本ではない。コミュニケーションの革命だ。
文字からの脱出のドキュメンタリーだ。

 

文字からの脱出を言うならば、抽象と具象の概念に切り込む必要がある。

今まで、文字が一番遠くに届くものだった。時間的にも、距離的にも。それは、文字という不可逆な超高圧縮というプロトコルを使うからだ。

体験は、何かに変えないと人に届けることはできない。つまり、体験という具象を文字という抽象に変換する必要がある。「あの時君と見た夕日」は、文字にした瞬間に普遍性を持つ代わりに「あの日」「君と見た」夕日性は失われる。非可逆圧縮だから。

文章がうまいというのは、具象性をあまり失わせずに、文字で体験を抽象に定着させることができるということを指したのだと思う。これは圧縮アルゴリズム職人技なので、そんなことができる人はなかなかいない。だから、今まで重宝されて来たのだと思う。それが例えば百人一首に収録された短歌。時を千年経っても不滅の名作を生む。

しかし、文字にしなくてはいけない理由が、技術の発達で少なくなって来た。ほぼリアルタイムで、安価に、広帯域で世界中の人とつながるインターネット。月に行ったアポロをはるかに凌駕する性能のスマホ。だいたい無料のアプリ。

どう感じたかは、脳内にしかないので、流石に文字が必要だ。しかし、どんな風景だったかは、見たままを記録し、送信できるだけのアプリとパイプを人類は獲得した。

体験共有の民主化と言って良い。

 私はそこに未来を感じるのだが、筆者はどうも郷愁を感じているように思えるのがエモくてよい。

 

 

三池崇史『藁の楯』2013

まずは設定の勝利

「この男を殺してください。御礼に10億円差し上げます」


『藁の楯 わらのたて』予告

 

誰も(仲間さえも!)が10億円に目が眩んで殺そうとする人の見える中、標的となった異常殺人者を東京まで護送する任務をえた警察官たちの物語。

基本的に危機>解消>新たな危機>解消>さらに新たな危機、という緊張弛緩の繰り返しでできてるところは『スピード』に似ている。一部のシーンは『セブン』など有名なシーンを借りて来ている。

ただ、私はこの物語を、あなたにとっての職業倫理とは何ですか? と問われている映画として見ていた。

護送対象の殺人犯は、幼女を弄んで殺す異常者である。時代劇価値観でいうと、殺して溜飲を下げるべき、という存在。なので、山崎努演じる老人がこいつを殺したら10億円、という気持ちはわかる。しかもこれを演じる藤原竜也が、本当にこいつクズだなという言動行動を徹頭徹尾完徹する。

にもかかわらず、警察官職務として、安全に東京の桜田門まで送り届けなければならない。「ほら、いいじゃん、殺しちゃえよ」ないし「殺させてやれよ」というシーンが満載。それでも、あなたは、職業倫理を守ることができるだろうか?

何となく、ヴォルテール (実際には彼の友人のセリフらしいが)の

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

という言葉が思い浮かぶ

「私はあなたを殺したいと思っている。しかし、職業倫理として私は命をかけてあなたを生かして送り届ける」

これを荒唐無稽な堅物ととるか、あるべき職業倫理ととるかは意見が分かれるところだろう。見ながら「殺しちゃえ」「守るべきだろう」の間で私は揺れ動き続けた、そういう映画でした。