教えるって、大変。それは結果が出ないから大変とおもうこともでもあるし、経過のひとつひとつで、「なぜこのロジックで話が通じない?」という怒りや絶望だったりする。(あ、大げさな言い方になっているかも)
それはなぜなのかと自分に問うたところ、どうやら相手の「物わかりの悪さ」自体ではなく、それによって自分の成功体験を否定されている気になるからではないか、という感触を得た。自分の成功体験は、自分のポジティブな人格の一部だから、そこを否定されると、ムカツクのは当然だろう。
ロジックではなく、エモーショナルに、ね。
これはもちろん、客観的意見と、人格攻撃とは分けるべきだ、という初歩的な受容を、私がきちんとできていない、という問題ではある。
が、人格を攻撃されると、どうして腹が立つのか。
特に、正論をいわれたときに、素直にI'm sorryと言えず、怒りに向かうのか。
たぶん、人格を否定されるたびに、私は少しずつ死ぬのだ。
そしてその死を受け入れられずに苦しむのだ。
エリザベス・キューブラー=ロスが『死ぬ瞬間』の中で発表した「死の受容のプロセス」と同じ。
- 否認: 自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う。
- 怒り: なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける
- 取引: なんとか死なずにすむように取引をしようと試み、何かにすがろうとする
- 抑鬱: なにもできなくなる
- 受容: 最終的に自分が死に行くことを受け入れる
他人とは100%受容し合うことはできないという現実は、毎日少しずつ死ぬ、ということ。だとすれば、毎日少しずつ上記の「受容」以外のネガティブな感情が自分の中で湧き起こり、それに対処を迫られるということだ。
今までの成功体験を、他人に否定されるのは当然。その人と同じ経験をしているわけでもなく、昔の成功体験とおなじ外部・内部環境にいられるわけもない。まずは「違うのだ」ということを自分が受け入れ、そのうえで、相手と合意しうる何かを積み上げ、それを信用に結びつけ、一歩一歩歩いていくことだけが、自分にできることなのではないか、とおもった。
スサノオノミコトは、天から追放されるときに、「風雨甚だしといえども、留り休むことを得ず、辛苦(たしな)みつつ降り」たという(隆慶一郎『一夢庵風流記』からの孫引き)
人である私は、かつて天にいたのか、今、地獄にむかっているのかすらわからない。人生はつづく。「風雨甚だしといえども、留り休むことを得ず、辛苦(たしな)みつつ」行くしかないのだと、腹をきめて歩く覚悟が、必要なのだろうとおもった。
でもね、別に悲壮な覚悟をするつもりもなくて。
ジョハリの窓的に「自分は知らないが、他人は知っている」窓がひらき、約束の地ではないかも知れないが、自分の発想だけではとどかない場所にいけるかもしれない、という興味と楽しみがある。
死んだら、たぶん再生する。生物的に生き続けている自分が、自分の成功体験の一部をうまく「殺」せば、別の新しい何かを得られるのではないかという、再生への祈り、かもれない。
人生ってさ、大事にすると、一生つかえる。
生きてるだけで、丸儲け、さ、なーんてね。