芸術は、今ある観念に対して「ほんとうにそれが美しいの?」と壊す力がある。おおくの現代芸術は、壊すところで終わっているんじゃないかとおもう。それは、ワケのわからないものを「芸術的」と皮肉ったものそのものかもしれない。
しかし、リー・ミンウェイは、壊しながら新たな提案をしているようにおもう。
しかも、自分が知らない誰かに、一定以上の自由を許しながら。
きわめてパーソナルなものこそが、普遍化するというのは、映画などでもよく取り上げられる素材ではある。
しかし、記録も公開も顕名もされないまま、そのひとのなかに残ろうとするというのは、どういうことなんだろう?
どういう顔をすれば良かったのかわからなかったのは、「布の追想」である。
きわめて個人的なものが箱の中にあり、ひもをほどき、その姿を見せる。
私が見た箱には、子供がハロウィンで着た仮面ライダーの衣装があった。
赤の他人であってもきっとその人にとっては貴重な何かをのぞかせていただいているというありがたさ。赤の他人の記憶に土足でわけいってしまったという土足感。しかしそれは記憶の贈り物として見せられているという、どう形容していいのかわからない居心地の悪さ。「共有」であれば、広く第三者的に公開されるのだろうけれど、箱をあけ、しめるという行為があるので、きわめて個人的に開示されたような気がするのだ。
頭の中がぐるんぐるんする。
ソーシャルであるとは、つまり、何なのか。
私はこういう死角からの視点を待っていたような気がする。