cafe de nimben

見たものと、読んだもの

元寇について調べてみたら、更新せねばならぬ知識もあることがわかった

まだwikipediaでしか読んでおらず、裏取りはしていかねばならんとしても。

八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)に書かれていることについて。
元寇についての資料として名高いらしいこの寺社縁起は、八幡さまの功徳を説いたものであるがゆえに、蒙古軍の強さを描くことで、それに打ち勝つ導きをした八幡さまエライ! というバイアスが入っていることを前提に読む必要があるということ。

蒙古襲来絵詞
日本軍が個人戦闘で、蒙古軍が集団戦法というのは、どこまで本当かわからない。というのは、日本の騎馬軍も集団で戦っていた様子が書かれていることと、元側の記述にも「騎兵は結束す」とあるらしいので。

震天雷ともしるされる「てつはう」は2001年に長崎で引き上げられたらしく、その知見も記述されるとうれしいな。


旧暦10月5日に元軍が対馬に上陸。『アンゴルモア』第1巻冒頭が10月10日なので、一気に対馬は攻略されたわけではなく、パルチザン戦をし続けていたという考え方で、物語が構築されるとおもわれる。

歴史上は、壱岐に10月14日到達。20日に福岡早良に上陸。21日に元軍撤退のようだ。

少弐景資が朽井に3,000の援軍を約束したのが10月3日(でいいのかな)、とすると7日後は10日で、冒頭の日ということになる。3,000の援軍を対馬に回せるとは思わないので、このまま対馬だけでさてさてどうなるのか。対馬である程度時間稼ぎができたので、壱岐に到達が14日まで遅らせることができた、ということにするのかな? 当時の船足で対馬から壱岐が10日かかるのは短いのか長いのかよくわからないな。

蒙古の立場からすると、壱岐や福岡に行くためには、敵陣での挟撃を防ぐために対馬を自陣として占領するか、無力化する必要がある。ヨーロッパで行ったような殲滅戦をするか、挟撃だけをふせぐために船を全部破壊するかでケリがつく。補給を考えると、対馬に長居はしたくないだろうから、後者の可能性はそれなりに高いと思う。前者だと山狩をしなくてはならず、かなり時間を要するから。

壱岐に14日に戦闘をおこなうことを考えると、10日には対馬を出たいよな。ということは冒頭の10日というのは、対馬戦の最終段階ということになりそうだ。そこから対馬に残ってゲリラ戦を続けようとするが船をやられて孤立するのか、援軍が少ないながらも来て、福岡にもどって文永の役を描くのか、まだ予想できないかな。

なぞの僧侶の格好で登場した少弐景資は実在の人物で、蒙古襲来絵詞にも書かれており、文永弘安の両元寇に出撃している。

さてさてどうなるか、楽しみだ。