cafe de nimben

見たものと、読んだもの

丁寧な言葉とはなんぞや

「死ね」を「入滅しろ」と言い換えても、言葉が丁寧になっていないと思うのです。

 


「死ね」を分解すると、例えば「何度もこんなことを言わせるな、それを言わせるお前はおれの時間を奪うから、死ね」なんてのが考えられる。
 
とすると、「何度も同じことを言わせる」他人、「そこで時間泥棒と感じてイラつく」自分、自分から他人への「死ねという要求」に分解できる。
 
まず最初に、「時間泥棒と感じる自分」は、容易には変えられない。
どう感じるかをコントロールするのは難しい。悟れればできるかもしれない。けど、凡人はあまり即効性あるものとして挑戦しなくてもいいかな。
 
次に、「死ね」と言うのはやめたい。
死なないし死なれても困る。軋轢を生むことは間違いないが、そのリスクに比べてリターンは「自分の気分が一瞬だけすーっとする」だけ。軋轢を生んだ後の消火活動リソースのほうがかかるので、いいことはない。
 
最終的に消去法で「何度も同じことを言わせる」行動をどうにか改善してもらうところに絞ろうというところに落ち着く。
本当はこれだって無茶ゲー。自分じゃなくて人の行動だから。ただ、ほぼ全く手がでない前二者に比べると芽はある。
その無茶ゲーの中で、何をどういうか、どう行動するか考えて実行することが、丁寧じゃないかなんて思うのです。丁寧な言葉には、たぶん、丁寧な行動を伴わせると、いい感じ。
 
言葉の話は、言葉のレイヤーだけで考えない方がいいかな、というお話でした。