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グザヴィエ・ジャノリ『偉大なるマルグリット』2015

実話から着想されたフィクション。1920年代フランス。大金持ちの貴族のマダム、マルグリットが慈善のサロンコンサートをトリを務めるシーンから始まる。

誰もがみんな知っている、しかし歌っている本人だけは知らない。彼女が音痴だということを。

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実話のほうは、1868年アメリカ生まれのある意味伝説の歌姫であるFlorence Foster Jenkins。とんでもなく音痴のSP盤→CDがリリースされているみたいなので、興味のある方はお探しください。

Various: the Complete Recordin

Various: the Complete Recordin

 

お金にあかせて、1944年にカーネギーホールでコンサートを開いたというところが伝説ですね。で、このマルグリットもコンサートを開くのです。

 

となるとコメディかとおもうじゃないですか!

ちがうよ、これ。

何かに打ち込んで、それが恋でも仕事でも学問でも趣味でもいいんだけど、それが実らない片思いだったら、ひとはどうなるのか、という悲劇ですよ、これは。

以下、ネタバレ祭り。

 

主演はカトリーヌ・フロ(Catherine Frot)

狂気の夫人を演じる。狂気といっても、気が違っている系ではなく、純粋がそのまままっすぐ行き着いた先の何か。

彼女は、本当に歌が好きだったのか、最初の最初のところはわからない。

描かれるのは、夫に振り向いてほしくて、恋の駆け引きのように音楽に傾倒する姿。

しかし、夫(André Marcon)は、夫人のことを「怪物」と呼ぶ。音痴にもかかわらず、公衆の面前で歌う姿に耐えられない。爵位は夫人のお金で買ってもらった。だから「音痴で気持ちが悪いからやめろ」とはいえない。仕事がうまくいかないと、寄る辺がないので、ワークホリックになるし、浮気もする。ただただ、耐えられないのだ。

サロンコンサートにあつまる人たちも、歌うのと引き換えに多大な寄付をしてくれるのであれば、儀礼的に誉めそやす。

サロンコンサートのシーン、すばらしい二重合唱などあるなかで、急にジャイアンコンサートが始まるから、笑わざるをえないですよ。

夫人は、裸の女王様なのだ。

で、この貶め方からすると、夫人を馬鹿にする系のコメディなのかしらとおもったら、ちがう。これは貶めたのではなく、単に事実の提示に過ぎなかったのだ。

初めはどうだったかしらないが、夫人は、音楽が好きで、オペラが好きで、お金にあかせて、楽譜も衣装も収集するし、コスプレ写真もいっぱいとる。楽しそうだ。

実際、とてもよいひとに見える。騙されやすいのだが、それも純粋さゆえ。芯から援助してあげたいとおもってしまう。おそらく、「ひとの役に立つ」というのが、夫から愛されていない孤独を埋める何かなのだろう。

夫人が、サロンコンサートという閉じた場ではなく、シアターでオペラコンサートを開きたいという方向に向かうと、ストーリーは動き出す。

悲劇性を高めるのは、巻き込まれるひとがみんな夫人のことを親身になって協力し始めるところだ。最初は、小説家も詩人も、笑い者にするためだ。音楽教師も、脅されて、そしてお金のため。しかし、最後の最後まで付き合うことになる。あんなに「怪物」として忌避したがっていた夫も。

夫人はわかっていたのだろうか。わからずに狂気の世界にまで足を踏み入れてしまったのか。あるいはわかっていながら、弾み出した車は後戻りできなくなったのだろうか。

歌が手段だったのか、目的だったのか。夫からの愛が目的だったのか。最後は、たぶん、誰もよくわからなくなってしまっている。

執事にとっては愛の物語であるべきだとおもって、あのラストシーンになるのだとおもうし、そういう意味で執事にとってはハッピーエンドなのだろうとおもう。

私は悲劇だとおもうし、まままらない世の中で折り合いをつけていくとはどういうことなのかをぐっさりと考えさせられる名作だとおもいました。

 

配役などはwikipediaのフランス語版ご参照あれ。

Marguerite (film) — Wikipédia

www.grandemarguerite.com

監督さん、Xavier Giannoliだと「グザヴィエ」というより「ザビエル」と書いた方がしっくりくるんだけどな(個人的見解)。