善意というモチベーションのコントロール

やってしまいたいことができたとき、ひとはそれを我慢できるのだろうか。

行動すると悪い結果になることがあらかじめわかっていたとしても、悪い結果になるかもしれないとおもいつつ、やってしまうことがある。

 

嗤う伊右衛門 (角川文庫)

嗤う伊右衛門 (角川文庫)

 

 

 

行動すると悪い結果になることが朧げにわかっているのに、それに目を瞑って、今回はいい結果になるだろうと自身に言い訳しながら、やってしまうことがある。

やってしまいたいという欲望。善意を貼り付けることができれば、大義名分をたててくれるから、行動に移す敷居を下げてくれる。

ひとの善意が「大きなお世話」になりかねないことに、ほとんどのひとは気がついているのだと思う。だから「押し付けられても、顔を立てて、受け入れるべきだ」という発言になる。

ぼくには、悲鳴に聞こえる。何かひどいことが起きている。その報道を見聞きすることで、心が痛んでいる。それに対して何もできないというストレス。それの解消方法が見つからない。

ひとは自分が生きてきた延長線でものを考えるので、たとえば千羽鶴だとか、過去の経験から引っ張ってくるのだとおもう。それが、阪神、東日本、そして熊本と体験したことによるより正しい知見によってアップデートされていることをしらないこと自体は、どうしようもないことだとおもう。鎌倉幕府が1192年にできたとおもっていた私には、きちんとアップデートしていないことを責める資格はない。

善意の持って行き場がない苦しさ。

善意によって不要な労力消費を持ち込まれ、それを処理する賽の河原のようなやるせなさ。

ここにはミクロとマクロがある。前者は個人のちいさな善意だが、後者は前者の集積なので、負担の桁が違う。想像力といってもいいが、自分のことですら喉元過ぎれば熱さを忘れるのに、他人のことをきちんと慮ることなんて、なかなか難しいことだ。

主語を小さくして自分に引き戻すと、善意の押し付けにならないように「祈り」をつかって、ひとに迷惑をかけないことを心がけたい。自分にとって不毛な善意を押し付けられたときは、いい方向にどうやったら巻き込めるかというのが、課題かなあ。「あなたに強要して1マイル行かせようとするものがあれば、いっしょに2マイル行きなさい」(調べたらマタイ伝5:41だった)というてもあるのだが、これは時間と心の余裕が無限にないとできないよね……。自分に降りかかってきたら、自分にはもうそのリソースがないということで諦めて、拒否するしかないのかもね。

あとは、こういうエントリーを書いておいてなんだけど、絡むと感情リソースをつかってしまうような話題を避けることかなあ。

あるいは、こういう「どうしようもなさ」を善意の被害者なしに消化してくれるのが、文芸というやつかもしれないね。

直ちに役に立つものではないので、短期的には「極上の暇つぶし」にしかならないのだけど、長期的には人間のどうしようもなさということを知るという基礎力になるのかも。