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見たものと、読んだもの

『シン・ゴジラ』の「ニッポン vs ゴジラ」考

時間との戦いをドライバーにして物語を駆動する物語として、ヤン・デ・ボン『スピード』(1994) がある。爆弾魔@デニス・ホッパー vs 正義の警官キアヌ・リーブスの名作だ。

 

もちろん、デニス・ホッパーと巨大不明生物ゴジラを比べたいわけではなく、キアヌ・リーブス矢口蘭堂を比べるのだ。

一番の違いは、感情の出し方だ。

キアヌは、冷静に諦めずに助かる道を考えるけれども、泣きそうになるし、女の子くどくし、怒るし、絶望してものにあたる。

矢口は、一度だけ激昂するだけだ。

内に秘める思いはあるが、感情は秘めている。

これは、全体的にもいえて、キアヌの上司も怒るし褒めるし、感情的。ゴジラの場合は、感情的な上下はほのめかされるだけで、派手にだしたりはしない。

これは、ふつうの日本人ならこう現実的には動くだろうという、リアルな描写なのだとおもう。だから、海外から見たら、とても地味なゴジラにみえるかもしれない。

顕名の英雄と、無名の英雄。

そして、英雄感がちがう。

『スピード』の場合は、キアヌが英雄だ。彼は体をはり、頭をつかい、他の誰もがなしえない英雄的行動をして、事態を収束させる。

もちろん、それができる範囲の物語だから、ということはいえるが。

シン・ゴジラ』の場合は、特別なヒーローは誰もいない。あえていえば、誰もがヒーローだ。

内閣も、巨災対も、自衛隊も、外交交渉者も、化学生物工場の人達も。

自分の持ち場で、自分の責任の仕事を120%全うすることで、総合的に巨大不明生物と戦う。日本総力戦。ゴジラ対日本、という惹句がいきる。

だから、前者は「キアヌかっこいい」になるし、後者はそこらへんにいる凡人の物語として(多くはおそらく巨災対のひとりとして)この物語を消化していき、カタルシスを得るのだとおもう。

何もできずに避難をするひとたちだったり、巨災対の面々を影で支える家族の物語だったり、他の都市にいるひとなどの、ゴジラ戦に参加しないひとたちの物語は、ほのめかされるが、描写としてはそぎ落とされている。そのそぎ落としがリズムを生んでいるのだが、描写されないひとたちのほうに感情移入しやすいひとは、このゴジラには乗れないのだろうね。