仁義と義理と『侠骨一代』(1967)と『ジャッカル』(1997)

法的には許されないことを、超法規的に許したり、制裁したり。

それに喝采したり溜飲を下げたりするのって、どう言う心理が働くんだろうね。

侠骨一代 [DVD]

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ジャッカル (字幕版)

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 完全ネタバレ。

 

ジャッカルの場合

『ジャッカル』は、最後のシドニーポワティエがリチャードギアを高飛びすることを見逃してやる、と言うシーン。

日本の時代劇でも結構ある。アウトローに力を借りて、司法取引的に最後に見逃して終わる。もちろん、見逃しても問題がないくらい更生していたり、それだけのきつい仕事を終わらせている、と言うことが必須だけれど。

小悪党が、一世一代の大博打で、自分の悪党人生を終わらせて真人間になるために、そう言う超法規的な話が必要という筋書きは、なんとなくいいお話だ。

鬼の平蔵とか銭形平次あたりが好きそうかな。

さすがに更生していないけれど、取引上見逃さないといけない、という場合は、超法規的に殺してしまうんだろうなあ。

「約束を守る」快感と「約束を破る」快感って、どこに線引きがあるんだろうか。

侠骨一代の場合

『侠骨一代』は、高倉健がかっこいいし、藤圭子がまたかっこいいんだが、そこはちょっと置いておく。

大木実演じる小池は、高倉健演じる主人公伊吹と兵役時代に出会って親友となった。しかし、最終的には小池がいる岩佐組と、伊吹の坂本組は、大抗争になって対決する。

小池は、岩佐組代貸としての立場と、伊吹の親友としての立場。これを巧妙に両立させる。

岩佐組の立場で、伊吹と一騎打ち。素手だった伊吹に日本刀を渡し、手加減しないと言い放って白鞘の真剣での勝負。あえてなのか小池は腕一本切られて負ける。その時、我に返って大丈夫かと日本刀を落として小池に近づく伊吹。大丈夫だ、それ、持っていけという小池。

つまり、腕一本という代償で、岩佐組の立場と伊吹の親友という立場の両方をなんとか満たす解を見つけ出したということになる。

岩佐組の親方がなかなかの人でなしなので、裏切ってしまえと思ってしまうから、割とすんなりとこの裏切りは許せる。

それでもなお、腕一本は差し出さないとただの裏切り者ってことになるんだろうなとも思うし、それだけ小池が真面目なんだということを描写していて、人情劇として美しい。「俺も今までの親分のやり方にははらわたが煮え繰り返っていたのだ、俺にもやらせろ」と伊吹と一緒に戦いにいく、ということはない。自分のやりたいことをするためにも、あちらとこちらと同時に立たせて、必要に応じて代償を出すってのは、すごい中間管理職魂という感じがしなくもないが。

フィクションの役割

法では捌き切れない何かがあって、それを捌ききる快感を提供するというのは、フィクションの大事な役割なんだろうなあ。

節度とか美学と言ってもいい。

そういう美しさがあってもいいよね、普通は許されないけどね、という観客の琴線に触れるために、その美しさをゆっくりと染みさせていくこと、あるいは対立するものをとても醜く描くことで、最後の超法規的なものを許すように持っていくのは、演出力でもあり、構成力でもあるんだろうと思う。

いや、あるいは例えば高倉健シドニーポワティエという名優の力か。

普通の人がやったらただの犯罪だが、名優の力でスクリーンから無理矢理にでも快感を託されるというのは、映画っていい意味で理不尽なものなんだな。