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見たものと、読んだもの

ウェイ・ダーション『セデック・バレ』2011(台湾)

1930年に日本統治下の台湾で起きた霧社事件をベースにした台湾映画。

映像がとてもきれい。アクションはとても派手で素晴らしい。

映画館の大スクリーンで見るべき映画だったなあ。

しかし、見終わった感じは、とても重く、哀しい。

とある気高いが時代に取り残された民族が一つ、消えていく様を見ている感じがするからだろうか。

この映画、長いんですね。第一部:太陽旗が144分。第二部:虹の橋が132分。冗長な部分はほとんどなく、その長さでしか語りえなかった感じはあります。見るのに体力が必要です。

公開からそれなりに時間が経っているので、以下、ネタバレ付きの感想。

 

 

 

なぜファンタシーと思って見てしまったのだろうか

題名は、セデック=人、バレ=真の、なので、真の人という意味。セデック族で一人前として認められた男子のことを「セデック・バレ」という。そう、セデック族の男としての生き方の記録の映画なのだ。

言語

使用言語は、半分くらい日本語、半分くらいセデック語。

セデック語は北京語や広東語とも全く違うので、台湾/中国映画という感じはしない。セデック語の響がなんとなくスペイン語とかポルトガル語っぽい。全く聞き取れない異世界の言語。日本語は基本的に日本人役者が話しているので、あんまり奇妙な感じは無い。

映像

絵も緑滴る中で、超人級の身体能力の戦士が跳ね回る。セデック族の民族衣装は和服っぽく前で合わせるタイプなので、とてもオリエンタルな感じ。『十二国記』や『精霊の守り人』を実写化したような絵面。

 

台湾は沖縄よりも南にあるが、雪が降る。そのシーンもある。台湾の最高峰の玉山(旧名:新高山ニイタカヤマノボレ新高山です)は3,776mの富士山よりも高い3,952m。セデック族がいるところはそこまで高いところでは無いとはいえ、2,000-3,000m級のところもある。高山でひょいひょい走り回るって、高地トレーニングか何かですか。普通に出てくる日本人兵士との身体能力の差が激しく、セデック族は超人としか見えてこない。

描写

描写自体は、どう言ったらいいのだろう、リアルな話として見なくてもいいように、うまくぼかしている部分もある。ランボーやエクスペンダブルズのように、そこのゴア描写を楽しむ映画ではないので、そこのぼかし方は正しい気がする。それでも正視に耐えない酷い映像場面はいくらもあるのだけれど。

そして、神話

北欧神話っぽい。

北欧神話では、死後、ヴァルハラに迎えられることが戦士の最上位の誉。勇敢に戦って死ぬことがヴァルハラに迎えられるための条件。ヴァルハラでは、最終戦争ラグナログに備えて、昼は戦い、夜は饗宴にふける。『ヴィンランドサガ』でいうとのっぽのトルケル的な。

セデック族の男は、首を狩ることで「真の人」となり、顔に刺青を許される。顔の刺青は、死後、虹の橋の向こうで、祖先の霊とともに永遠の狩場に入れる入れないを見分けるものとなる。

この神話に準じるように生きるところがファンタシーっぽい。

「真の人」にならなければ、死後に一緒の狩場に入れないので、子供に首を狩る機会を作ってあげたいと言う親心も透けて見える。

霧社事件のあと、一斉に男たちの顔に刺青を施すのだが、永遠の狩場に行く権利を、部族絶滅を等価交換したのかと思うと、セデック族にとっては祝祭のはずが、重苦しいものとして描かれる。

負けると思っていても、自らの民族の誇りをかけて、西洋化軍隊に旧来の方法で戦いに向かうのは、ちょっと『ラスト・サムライ』っぽいかもしれない。

出草、またの名を首狩

そしてそう、首を狩るのだ。

一対一での決闘というよりも、後ろから風のように近づいて山刀で首を一刀両断にする。その首を持って帰る。(いきなりそのシーンから映画は始まる)首はドクロとして保存する。

調べると、同族内ではやらず、別部族ないし、知らない第三者の首を狩ることが多かったらしい。怨恨はあんまり関係なさそうだ。狩りの最中でも、自分の前に出ている同族を撃ったり、場合によっては怪我をさせてしまうことも。近代的な人権感覚とは程遠い。日本だと室町時代

映画内にきちんとした説明はなかったので、ざっくりと「台湾原住民」としての出草のwikipediaの記述を引用する。

出展:台湾原住民 - Wikipedia

台湾原住民族(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあった。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。狭い台湾島内で、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団がそれぞれ全く交流することなくモザイク状に並存し、異なる部族への警戒感が強かったためであるといわれている。漢民族による台湾への本格的移住が遅れた要因として、この出草の風習を抜きに語ることはできないという説もある。首狩りそのものが、「部族を外敵から守る力を持った一人前の成人男子」としての通過儀礼(成人式)とされ、あるいは狩った首の数は同族社会集団内で誇示された。成人式を終えるまでは、妻子や部族を守る力が無いとして、一人前の成人男性としての結婚や儀式などが許可されなかった。ただしこの習慣は、他にもマレー系、南米先住民族の一部などにも見られる。

映画の描写から受ける印象は、全く無関係な第三者の首を狩るのではなく、狩場争いをしている他のグループの首を狩るという感じだったので、セデック族の事実としては正しいのかどうか、よくわからないが。 

映画の描写とは違うところもあるが、若いモーナ・ルダオが日本に帰順した時に50-100の髑髏を麻袋に入れて提出していたので、確かに頭目になるものはそれだけの量の首を持っていないといけなかったのだろうという気はする。

そう、かけ離れているので、実話としてのリアル感をあまり感じなかったのだろう。

特筆すべきは、主人公を演じた林慶台(Nolay Piho) 

頭目となった後のモーナ・ルダオを演じる林慶台の佇まいが素晴らしい。映画初出演。本業は牧師。セデック・バレ神話と吹き上がる若者と近代日本の国力との圧倒的な差の板挟みで苦悩し、のちに率いて戦うその顔のシワが説得力高い。林はセデック族ではなく、タイヤル族。セデック語は話せないので、セリフは丸暗記だったらしい。

 

彼が民族民謡を歌い、踊るのは、何か神に捧げる神楽を見ているような気がした。 

www.u-picc.com

 

予告編の違い。

まず日本版


映画『セデック・バレ』予告編

 

台湾版予告編

(プレビュー画像が無いので、リンク切れのように見えますが、あります)


賽德克巴萊 Seediq Bale セデック・バレ 正式預告3 Theatrical Trailer 3 (NEW)

個人的には、日本版の予告編の方が、本編観劇後のニュアンスを表しているような感じ。台湾版の忠臣蔵的なカタルシスは感じなかったのは、多分、後編『虹の橋』で描いている重苦しさのせい。

 

なかなかにセンシティブな映画ですね。