言葉は阿頼耶識というこの世に形として存在しないものに器を与え、人に見えるようにする次元変換装置である。それにとどまらず、その形を人に伝え、広めるためにも使う。逆に、言葉は言葉として抽象化された時点で、非可逆圧縮されてしまうから、漏れ落ちた何かを拾って、元の形に戻すことが難しい。だから、言葉は使うが、言葉だけでは再現できないという業を背負う。
そう、そこでマンガという融通無碍のメディアで、視覚という補完機能を使って、阿頼耶識を再現するのだ、天才空海と秀才最澄の、それを。
平安の地獄を、どうしたいのだ、空海と最澄?
久々に、そういう口上はどうでもいいから読め! と言いたい作品だ。しかも連載完結していないから蛇の生殺しである。
主人公は、最澄と空海。同じ遣唐使で唐に行き、各々が天台宗と真言宗の開祖となる。ネタバレも何も史実だから、最初仲がいいが、最終的には袂を別つ。その2人のダブル主演。
で、最澄の出始めが良い。空海よりも7つ年長であることも含め、彼が先に出てくる。よく「秀才最澄」的な言われ方をするが、おかざき阿吽では、最澄も十分に天才としての描かれ方をする。
今は、6巻まで出ている。二人には、密を得たいという欲望があり、密に触れれば理解できるという自負がある。そしてまだ、二人とも得ていない。歴史から見ると、得たからといって、幸せなだけでなく、多くの不幸を背負うこともわかっている。さて、私がいきている間に、完結してくれるんだろうかね。
何れにしても、この時代は、地獄である。平安遷都。早良親王の祟り。飢饉。強盗。殺人。圧倒的な暴力。四苦である生老病死。人も人外も等しくその地獄を生きる。生きるか死ぬかの切迫感は、なかなか文字だけでは表せるものではない。
そこに、絵というフィクションでどこまで迫るか。
いや、グロは描こうと思えば描ける。うまく直接の表現からは外しているが、画面の外の地獄ぶりは、グロい。人はまだ、現代人から見たらケダモノである。サイコパスである。特に疑念なく、自らの欲望の元に、躊躇なく人は殺されていく。この時代に生きてこなかったことを喜ぶ程度には、それはグロく醜い。
しかし、醜いものと退避すべき、美しいものはどう描くのか。最澄空海という高僧の高みをどう描くのか。
絵ならではの表現として、口から、目から、耳から文字が流れ出し、無限の数の無限の長さのテープのような形をとり、それが人に絡みつく、というのがマンガならではだと思った。その一つ一つが、人を解放し、縛り、高め、貶める。
字が形をとり、命を持つ。
もちろんそれを荒唐無稽と笑うも良いだろう。しかし、依義不依語。意味に依拠して文言に頼らず。描いてあることに固執せず、描こうとした意味を理解し、その意味に依れと考え、感じていきたい。全く、こういう「描き手は好きに描くので、読み手は頑張って自分の思うように受け取って見よ、それでも満足させてやるぞ」という作品は大好物だ。
これとリンクする美術展:仁和寺と御室派のみほとけ
空海に呼ばれている気がする。なぜかというと。
特別展「仁和寺と御室派のみほとけ ―天平真言密教の名宝 ―」@東京国立博物館平成館
で、仁和寺所蔵の国宝で弘法大師空海ゆかりの「三十帖冊子」が公開されるんですよー。空海が写して日本に持って帰ってきたもの。
正直、今まで空海の真筆は何度か見たけれど、あまり興味を惹かれなくて素通りしていた。見る準備が、できてきたかな?
もしかしてお好きかも?
岡野玲子『陰陽師』(原作は夢枕獏)
平安時代をベースに、皇室と呪いとを書いたマンガといえば、岡野玲子『陰陽師』があるが、これがお好きな人は多分好き。
橘逸勢の空海に対するポジションは、本作の安倍晴明に対する源博雅だと思っているんだけど、どうかなあ。下『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』だと、逸勢って、狂言回し&コメディリリーフなんだけど。
夢枕獏『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』
沙門空海唐の国にて鬼と宴す 巻ノ一?巻ノ四 合本版 (角川文庫)
- 作者: 夢枕獏
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / 角川書店
- 発売日: 2014/06/25
- メディア: Kindle版
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映画にもなるらしい。今年2月公開予定。
これは空海が絶対的な主人公なので、最澄のことはほとんど書かれていません。
しかし、コスモポリスとしての長安や、同時代人としての白楽天を描いているという意味で、いい補助線になると思います。