世界の最後になった女の子二人が、そこにたどり着くまでを、淡々と描く作品。
60−70年代ならば、ポストアポカリプト・ディストピアハードSFになるところだ。世界の終わりに二人だが、世界を救うと言うようなセカイ系にもならない。
今なので、日常系っぽくなる。
しかし、いわゆる日常系とは違う。なぜなら、終わるからだ。
終わるための通奏低音として、常に死は隣り合わせに語られる。
死には二種類ある。肉か虚無かだ。
肉としての死は、例えば『ランボー 最後の戦場』がわかりやすい。泥と血の雨。
虚無としての死の匂いが、『少女終末旅行』には強い。食べてしまう魚をのぞいて、死肉は出てこない。ゆえに、腐る匂いもない。人類の肉体の痕跡は、骨すらない。
ただ、滅亡した都市と製造物のなかを、古風なケッテンクラークにのって、少女が二人、終末に向かって旅行をしているのだ。そして遺物をみて、二人は感じ、語り、そして補給が済んだら、祖父の遺言である最上階を目指して旅立つ。
何人か人に出会うことがあるため、彼女らは大勢の人類の中の二人なのだと思っていた。しかし、とあることから、世界には彼女ら二人しかいないことがわかる。少女二人では、「人類の罪が浄化された世界のアダムとイブ!」という話は成立しない。ここで種としての人類は、絶命することがここで明らかになる。
あとは、ウルトラCで生き残るか、さもなくば死を確実にするためだけに、ページが進んでいくことになる。
死が確実になって以降、何が書かれるべきなのか?
それはしかし、読者である私もそうだ。生者である以上は、いつかかならず死ぬ。しかし、家族、親戚、友人、またはこのBlogなどのような様々な中に、痕跡は残っていく。人類として滅ぶということは、それも残らない。それを考えると、自分が生きているということのありがたさ、当たり前だと思っていることの当たり前でなさが、浮かび上がってくる。
それは崇高な理念でもなく、個人的に、自分の人生ってこうだったよね、という小さな小さな主語である「私にとって」が全てでいい。
幸か不幸か人生は終わるまでは終わらない。読者である自分が、種の最後の人間として生を終えるなんてドラマは起きないだろう。だからここまでの絶望にあうことはない。にも関わらず、アホみたいな小さなことで悩み恨み嘆き怒り絶望する。
「生きるのは最高だったよね」と言えるように、生きていくしかないんだろうね。
ちなみに、最後の石板はモノリスであってほしい派。太陽系外へのロケット03が、どこかの人類が植民できるところを見つけて、そこにモノリス経由でワープできるといいね。という妄想はちょっとした。でも、あそこであのまま朽ち果てるという終わりでいいような気がする。二人だけの世界で、暖かくして、そのまま儚くなる。
あとがきの大駒は、ウクライナの国旗みたいに、青空と豊穣たる麦畑であってほしいな。