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見たものと、読んだもの

源頼光の鬼退治、酒呑童子編

こちらで出てくる

nimben.hatenablog.com

 

3巻の扉絵は、源経基。その子が満仲、孫が頼光。

そして、鬼として描かれている、酒呑童子、紅葉と茨木。

この鬼たちは頼光時代の伝説で、将門の物語とは別。このため、本編ではおそらく頼光はもうでてこないとおもわれる。

これは面白いので、読んでみたい話なんだけどねぇ。伊藤勢、描いてくれないかなあ。描いてもらえるとすれば、続編とか外伝として、かな。

丑御前のお話は、うまく見つけられなかった。

 

平安中期で、『瀧夜叉姫』の話から、約20年後の世界。

酒呑童子

NDL-DC 1310286-Tsukioka Yoshitoshi-頼光四天王大江山鬼神退治之図-元治1-cmb.jpg
月岡芳年 - 国立国会図書館デジタルコレクション: 永続的識別子 1310286, パブリック・ドメインリンクによる

源頼光が四天王(坂田金時渡辺綱など)などと退治するのが、酒呑童子と茨木(童子)

 

歌川芳艶「大江山酒呑退治」 安政5年(1858年)

Yoshitsuya The Evil Spirit.jpg
Yoshitsuya Ichieisai - here, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

大江山酒呑童子図』

webarchives.tnm.jp

見返り美人で有名な、菱川師宣(江戸時代17世紀)の作品

(これは画像のみで、文章による説明はない)

 

上記3つは、江戸時代のエンターテイメントだが、もっと昔からこのモチーフでの絵画は存在する。

 

大江山絵巻』(鎌倉時代

Ooeyama Emaki.jpg
逸翁美術館所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

いつの話?

御伽噺だから確たる年代があるわけではないが、990年説あり。10世紀終わりくらいと考えるのが妥当なところでしょう。

大江山って、どこ?

京都府の北側、福知山市にある山で、丹後天橋立大江山国定公園の中にある。

天橋立は、日本三景天橋立

近くに、元伊勢三社と言われる、旧神宮内宮などがある。

日本の鬼の交流博物館

という博物館もあり、大江山の鬼退治話などについても展示がある模様。

どんな伝承?> 青空文庫での、大江山のお話

物語としてまとまっているのは、

www.aozora.gr.jp

読むと、八岐大蛇vs素戔嗚尊の神話をかなり踏襲しているのがわかる。

 

キャラクター紹介

童子退治に向かうのは以下の6名。

  1. 源頼光(みなもとのよりみつ)
  2. 渡辺綱(わたなべのつな)頼光四天王筆頭
  3. 卜部季武(うらべのすえたけ)頼光四天王
  4. 碓井貞光(うすいのさだみつ)頼光四天王
  5. 坂田公時(金時)(さかたのきんとき)頼光四天王
  6. 藤原(平井)保昌(ふじわらのやすまさ)頼光友人

 

源頼光 (948-1021)官位:従四位下

源頼光土蜘蛛ヲ切ル図』(月岡芳年『新形三十六怪撰』)

Yoshitoshi The Ground Spider.jpg
Tsukioka Yoshitoshi - Art Gallery NSW [1] パブリック・ドメイン, リンクによる

 

清和源氏三代目。摂津源氏の祖。藤原道長の側近の一人。

ハンサムかつ、武勇に優れ、御伽草子の人気者。

 

酒呑童子を切ったと言われ、そこから『童子切』の二つ名がついたのが、国宝「太刀 伯耆安綱」。

 

*1

 

www.tnm.jp

 

 

 

渡辺綱:平安中期(953−1025)官位:従五位下。渡辺姓の祖。

『一条戻橋で髭切丸の太刀で茨鬼童子の腕を斬る(渡辺綱)』

Print (BM 2008,3037.21227).jpg

Print artist: Utagawa Kuniyoshi (歌川国芳) - https://www.britishmuseum.org/collection/object/A_2008-3037-21227, パブリック・ドメイン, リンクによる

嵯峨源氏なので、正式には源綱。渡辺姓の祖とされる。

生まれは、武蔵国箕田村(現、埼玉県鴻巣市あたり)。母方の里である摂津国西成郡渡辺に移住し、渡辺姓を名乗る。

上記浮世絵にあるように、「髭切りの太刀」で切り落とした逸話でも有名

 

一条戻橋ではなく羅生門で起きたという話になっているのが、こちら。

www.aozora.gr.jp

 

こちらで『酒呑童子絵巻粉本』が読める。

www.hyogo-c.ed.jp

江戸時代後期の粉本。

 

 

卜部 季武(うらべ の すえたけ) (950−1022)官位不明

別名:坂上季猛(さかのうえのすえたけ)、『今昔物語』では、平季猛(たいらのすえたけ)。

生誕地不明。

坂上はもちろん、坂上田村麻呂の系譜。ということだが、詳細不明。

 

葛飾北斎画『和漢絵本魁』より「卜部季武 姑獲鳥(産女)を懲す」

Hokusai Urabe no Suetake and Ubume.jpg
Katsushika Hokusai ( 葛飾北斎, Japanese, †1849) - scanned from ISBN 978-4-7538-0185-5., パブリック・ドメイン, リンクによる

今昔物語集』の「頼光の郎等平季武、産女にあひし話」より。

 

碓井貞光 (954?−1021?) 官位不明。

桓武平氏で、鎮守府将軍平良文の子。平貞光とも。

生まれは相模国碓氷峠(神奈川県足柄下郡箱根あたり)

 

歌川国芳 作『酒田公時・碓井貞光・源次網と妖怪』のうち、碓井貞光の部分。

Triptych print (BM 2008,3037.20903 1).jpg
https://www.britishmuseum.org/collection/object/A_2008-3037-20903, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

ろくろ首などの妖怪変化がいるのにも構わず、碁を打つ貞光。

 

坂田公時(金時)=足柄山の金太郎 (伝説として、956-1012)

マサカリ担いだ金太郎、の金太郎。足柄出身。山姥の子という伝説。

実在の人物かどうかは不明。一定の人物に相当の脚色を加えている架空の人物と捉えた方がいいのかもしれない。

976年に足柄峠を通行中の源頼光に認められて家来になり、上京。

同じ足柄出身の碓井貞光に紹介された?

 

歌川国芳『坂田怪童丸』

Sakata Kaidomaru struggling with a huge carp under a waterfall.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

 

 

頼光と出会った時。えー、むさくていやだw

Minamotono Yorimitsu & Sakata Kintoki.jpg
月岡芳年 - 芳年武者无類, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

www.city.odawara.kanagawa.jp

www.city.minamiashigara.kanagawa.jp

立命館大学アート・リサーチセンター

www.arc.ritsumei.ac.jp

藤原 保昌(ふじわら の やすまさ)(958−1038)

藤原南家巨勢麻呂流、右京大夫藤原致忠の子。官位:正四位下

大江山』で言われる平井保昌という別名は、摂津守となり同国平井に住んでいたため。藤原道長・頼通父子の家司。

生誕    天徳2年(958年)
死没    長元9年(1036年)9月)

 

月岡芳年作「藤原保昌月下弄笛図」(1883年)

Fujiwara no Yasumasa Playing the Flute by Moonlight LACMA M.84.31.137a-c.jpg
Tsukioka Yoshitoshi (Japan, 1839-1892) - Image: http://collections.lacma.org/sites/default/files/remote_images/piction/ma-31808204-O3.jpgGallery: http://collections.lacma.org/node/191379archive copy, パブリック・ドメイン, リンクによる

月夜に保昌が横笛を吹いているだけなのだが、斬りかかろうとしても隙がなかったため、刀が抜けないの図。

 

「平安のゴーストバスターズ」と言いたい気持ちはよくわかる。

 

 

 

 

 

*1:

頼光の父である満仲が打たせた二振りの刀がある。それが、「膝丸」「髭切」。
満仲から頼光へ。
渡辺綱に貸し出されたのが「髭切」。鬼を切ったので、「鬼丸」と改名。
頼光が土蜘蛛を討ったのが「膝丸」で、「蜘蛛切」とも呼ばれる。
頼光から、弟の頼信(河内源氏初代統領)へ。ここから河内源氏統領が持つ刀となる。
源為義(5代目)の代に、夜に獅子のように鳴くので「獅子ノ子」と改名。もう一振りである吠丸(膝丸)は、第19代熊野別当の行範に譲られる。「獅子ノ子」は「友切」と改名され、6代目為朝に譲られる。
7代目頼朝が「友切」を八幡大菩薩のお告げにより、「髭切」の名に戻す。
「吠丸(吼丸)」は頼朝の弟義経に伝えられ「薄緑」と改名。その後、頼朝の元へ。

近い名前の鬼切/鬼切丸だと別の方になるし、もしかしたら途中で混同されるし。正直、うまく辿れない。

鬼切丸だと、楠桂のまんがを思い起こしてしまうのだが。

夢枕獏・伊藤勢『瀧夜叉姫 陰陽師絵草子 』(第3巻)

少しずつ、少しずつ、大きな幹が見え始めてきたかも。

今までほぼバラバラだったエピソードが線でつながり始めた。さらに後で辻褄が合ってくるのかもしれない。(楽しみのために、夢枕獏の原作は読まないでおこう)

 

表紙は、平将門。きちんと異形として左の目に、瞳が二つある。

とは言って、この3巻では悪役、平将門登場がメイン。

見た瞬間、あの俵藤太より強そうと言う絵の説得力が素敵。

 

絵柄が違うので、全然気にしていなかったのだが、岡野玲子陰陽師』と同じ原作シリーズをコミカライズしているのだな。まるっきり違うから、気付くのが遅れた。

作家性の違いで、元の夢枕獏による大ヒットコンビ、安倍晴明源博雅の描き方が、こうも変わると言うのは面白い。

 

 

 

平将門という幹が見え始めた。作中でも説明はあるが、おさらい。

 

平将門の乱の年表

889年、高望王(将門の祖父。高望王の曾祖父が桓武天皇)が平姓を賜る。

884年、小野好古(野大弍)誕生。

891年、藤原秀郷生誕(俵藤太。藤原北家魚名流)。浄蔵法師生誕。

898年、高望が上総介として、治安維持を期待されて、家族とともに東下。(東下は889年説あり)そのまま土着化。常陸を中心に武家平氏の基盤を作る。

903年あたり、将門誕生。

909年、藤原忠平藤原北家本流。忠平は道長の曽祖父)の子、師輔生誕。同年、浄蔵法師が、藤原時平(忠平の兄)を祟る菅原道真を払おうとして失敗。

916年あたり、藤原秀郷、一族とともに罪を得て配流。

917年、貞盛誕生(高望の長男の国香の嫡男=将門のいとこ。常平太)。賀茂保憲も誕生。

918年ごろ、将門が藤原忠平と主従関係に。博雅、誕生。

921年、安倍晴明、誕生

923年、良将(将門の父)が鎮守府将軍に任じられる(930年まで)

930年ごろ?、将門が京を離れ、坂東へ帰る。この頃、父・良将死去。

931年ごろから、将門が伯父の良兼らと不和に?

935年、良兼らの義理の父である源護とその3名の息子と国香(伯父)を、将門が討つ。浄蔵法師、将門を呪詛開始(将門の乱平定まで)

936年、平将門VS 良兼、良正(叔父)、貞盛の連合軍と抗争。源護による将門謀反の申し立て。平将門らが朝廷によびだされ、藤原忠平太政大臣)に吟味される。

937年、将門、朱雀天皇元服恩赦で許され、東下。

938年、興世王が武蔵権守として、源経基(六孫王。酒呑童子を討つ、坂田金時渡辺綱などの四天王を統べる頼光は経基の孫)が武蔵介として武蔵に東下。この二人が、武蔵武芝と抗争。武芝は将門に調停を求め、興世王とは和解。源経基とは和解失敗。

939年、源経基が朝廷に、将門謀反と申し立て。興世王・将門・武芝は事実無根として申し開き、朝廷に受け入れられる。(藤原忠平の吟味2回目)

貞盛の後ろ盾である良兼が病死し、貞盛軍が弱ったところで、平将門が新皇を称す。(平将門の乱

940年、

(作中では、東下中の藤原秀郷が、勢多の大橋を越え、三上山でムカデを討つ)

母の兄弟である藤原秀郷と合流した平貞盛が、将門に敵対する。

興世王戦死、のち、流れ矢によって将門戦死(2/14)にて、乱平定。
藤原秀郷、功により従四位下鎮守府将軍に任じられる。平貞盛従五位下に。

同年、藤原純友の乱(西日本の反乱)を、源経基も向かうが、その到着前に、小野好古が鎮圧(941年)。

947年、藤原忠平、没

960年、藤原師輔、病没。ここが天徳四年、『瀧夜叉姫 陰陽師絵草子』(第3巻)の舞台となる年

 

将門の乱の立ち位置

平将門の乱単体で見ると、田舎である坂東での親戚同士(京から降ってきた源平の土着化と、婚姻関係を結んでいる元から坂東にいた土豪たち)の内輪揉めのように見えなくもない。別に将門が京に上って当時の朝廷を打ち倒すというようには見えない。中央からの圧政に苦しんでいる坂東を独立させると言う大義名分と八幡大菩薩の神託はあるが、その後の坂東運営のビジョンが私にはわからない。内輪揉めがすごく大袈裟になってしまった感がある。

ただ、作中で俵藤太が藤原忠平にたいしていう、「いかに将門が乱を起こそうとも、民がそれを後ろから押さねば、成るものではありませぬ」というのもまた歴史ではよくある話。数多ある文芸がか弱き民草からの異議申し立てである以上、潰えた「敗者の大義」を将門にみるのは、間違いではない。それが証拠に、いまだに将門が生まれた地の千葉県佐倉市のひとが成田山新勝寺に詣でるのを忌避するという話が、あれから千年以上たったあともあるのだから。

西は太宰府、東は淡路島まで、海賊を中心として瀬戸内海をベースに起きた藤原純友の乱が、ほぼ同年に発生している。これらも併せると、京の朝廷から見れば、中央集権体制への叛逆である。しかも二正面作戦を取らざるを得ない。他のところで独立の機運が立ち上がってきても困るので、早々に叩き潰す必要がある。

この辺りをうまく収めたのち、9世紀末から10世紀にかけての藤原北家道長(966年生まれなので、作中では生まれていない)を中心とする盤石の体制ができあがる。

940年(平将門の乱)時点の推定年齢(史実に近いベース)

56歳:小野好古(右近衛少将など)

49歳:藤原秀郷(平定後、従四位下鎮守府将軍、武蔵守)と浄蔵法師(雲居寺住職?)。源経基(平定後、従五位下)も大体これくらいか。

37歳:平将門(多分これくらい)

31歳:藤原師輔(参議、中納言検非違使別当=軍事/警察のトップ)

23歳:平貞盛(左馬允)と賀茂保憲(暦生)

22歳:源博雅従四位下

19歳:安倍晴明(?)

960年(この物語)時点の推定年齢

76歳:小野好古正四位下。参議、大宰大弐など)

69歳:藤原秀郷従四位下。役職なし?)と浄蔵法師(雲居寺住職?)。源経基正四位上鎮守府将軍? 在任期間不明)も大体これくらいか。

60歳:平貞盛(前丹波守)の作中年齢。

51歳:藤原師輔(正二位、右大臣)

43歳:平貞盛従四位下。元鎮守府将軍)と賀茂保憲従五位下陰陽頭

42歳:源博雅従四位下右近衛中将

39歳:安倍晴明(天文得業生)

 

この物語では、安倍晴明は10代から20代前半っぽい容貌。1巻の冒頭シーンを見ると、保憲とはそんなに大きな年の差を感じないので、40歳くらいだがそうは見えないと思っておくべきか。

あの筋肉量からすると藤原秀郷も70歳近くにはみえない。作中年齢的には50代? ほぼ将門とおなじくらいの歳にするとバランスがいいかも。

 

将門伝説

首と右腕がない、というのは、どういう話なのか。

首が見つからないとすれば、それは将門の伝説を示唆しているようにおもえる。

首については、有名な話がある。

流れ矢で討ち取られたのは下総(千葉県)のようだが、京都の七条河原で首がさらされる。そこから東国に向かって飛んでいったとされる。それを祀った神社がいくつかある。再びの内乱が起きないようにと飛んでいる首を射落として祀った御首神社(みくびじんじゃ。岐阜県大垣市)や、東京千代田区大手町の将門塚(首塚)などなど。

www.mikubi.or.jp

首塚は、うごかすと呪われるというオカルトがけっこう広まっていた。先日工事がつつがなく終わった。

visit-chiyoda.tokyo

右腕がないというのは、芦屋道満がもっていったっぽいのが作中で描かれているので、どうでてくるか、楽しみ。

腕を切られるというのは、別述するが、茨木童子の話のオマージュなのかも。

成田山新勝寺という平将門調伏のために設立されたお寺

成田山新勝寺の由来が、平将門を調伏するために、空海作の不動明王をまつった、処に始まるというのは、今回の件で調べて初めて知った。

成田山のはじまり(開山縁起) – 大本山成田山新勝寺

であれば、浄蔵法師よりも、成田山新勝寺の開祖となる寛朝法師(のちの大僧正)のほうが、加持祈祷で将門と直接戦っているという意味で、将門との敵対度は高い気もする。すくなくとも、小野好古よりは。(理由は、後述)

なお、将門を破ったお礼もかねてなのか、源頼朝が平家追討祈願をするなど、新勝寺は源氏系とつながりが深い。

 

将門に対して大きな関わりを持つと賀茂保憲が言っている6名の立ち位置

将門の乱の遠因となる戦いで戦った:源経基

将門の乱で、直接戦った;藤原秀郷平貞盛

将門の乱で、加持祈祷で戦った:浄蔵法師

 

こうなってくると、二人、刃を交えていない人がいる。

藤原師輔

将門の乱平定後の武勲功論にて、征東大将軍に任じられた藤原式家の忠文が坂東に着く前に乱が終わったが、忠文も功を任じられるように師輔が論陣を張り、認められる。

と言うのは史実にある。しかし、直接坂東で将門と戦ったわけでもない。

将門の乱以前、将門が申し開きに来たときは、師輔が検非違使庁別当(=警察庁長官)だった。この時の取調べには関わっているはず。しかし、作中では藤原忠平太政大臣が表に立っていて、師輔の描写はない。

師輔が、無根拠なものも含めて将門誅すべしなど、悪意のある上奏をするが、忠平に握りつぶされたという描写があれば、悪役っぽいのだが、それはない。まあ、もしそうしたとしても、位の差から言うと太政大臣の方がはるかに上だから、忠平が優先されるだろう。となると、将門にとって重要な敵対をしていたように思えないんだが。

どこかで相応しい描写がカットバックされるのか?

小野好古

藤原純友の乱の平定には関わっているが、将門の乱に直接関わっていなさそう。純友の乱平定後は、地方官として伊予権守・讃岐権守・備中権守などを歴任しているが、坂東に赴いたとは記述がない。

作中にある、浄蔵法師からうけとった何かが、キーとなるように描かれていくのだろうか?

ちょっとかわいそうな描かれかたの源経基

源経基は、正史では鎮守府将軍に任じられ、息子も孫も任じられるという武辺の家系であり、子孫が河内源氏征夷大将軍源頼朝足利将軍家を輩出する、清和源氏として臣籍降下した最初の人。作中の関係上、わりと情けない感じで描かれるのはちょっとかわいそうなきもする。

源経基藤原忠平の副将軍として将門東征に出立したが、同じく坂東に着く前に乱が平定されている。本番では全く活躍していない。

[220424追記] 扉絵で出てくる、経基からの3代、特に経基の孫の頼光の鬼退治系の話、別エントリーとして独立させます。ちょっと寄り道が過ぎたので。

黒幕は、誰だ?

将門は自らよみがえろうとしているワケではない。黄泉の国と現世を隔てるものすら崩して、朝廷に反旗を翻したいものがいる。誰かはわからない。人外の化生を操ることができるほど、陰陽に秀でている。その人物が、将門を使役するためによみがえらそうとしている。

「いかに将門が乱を起こそうとも、民がそれを後ろから押さねば、成るものではありませぬ」という後ろから押す誰か、なのか?

黒幕に協力する土蜘蛛=反朝廷勢力な、アラクネたち

いまのところ作中で表にでているのは、荒絢音たち國栖衆と仮面の姫である。

彼女らの動機は、今のところはっきりしていない。例の6名に対する「恨み」はありそうだが、何の恨みかは明らかにされていない。

 

土蜘蛛は反体制勢力を表すのだが、もちろんファンタシーなので大きな土蜘蛛としてでてくる。一番有名とおもわれるのが、源頼光が土蜘蛛を退治するの図。

Kuniyoshi Utagawa, Minamoto Yorimitsu also known as Raiko.jpg
『源頼光土蜘蛛の妖怪を切る図』(歌川国芳 筆文政前期 大判二枚続)

パブリック・ドメイン, リンク

ちなみに頼光がもっているのが、試し切りで罪人の膝まで切れた逸話から「膝丸」これをもってこの土蜘蛛を切ったので「蜘蛛切」と名前を変え、最終的に「髭丸」と言われることになる名刀。


『土蜘蛛草紙絵巻』(東京国立博物館所蔵、重要文化財鎌倉時代14世紀)

Tsuchigumo no soshi emaki - Kamakura - part 14 - Yorimitsu killing Tsuchigumo.jpg
不明 - http://www.emuseum.jp/detail/100257/000/000>, パブリック・ドメイン, リンクによる

 

荒絢音は蜘蛛。アラクネはギリシャの織物の女神で後にアテナに蜘蛛にされる。

國栖衆は、神武天皇東征のおり、光る井戸から出てきた尾のある人という伝説がある、先住民。ってことは、基本的には朝廷に敵対するもの。

となると姫は誰?

國栖衆の誰かなのか、それとも、歳も二十歳くらいだとすれば、将門の側女の桔梗の娘?

更なる黒幕がいるのでは?

それは、興世王なのか?

描写の絵的には、もしかすると、という感じはある。魑魅魍魎を使役している顔があまり描写されないキャラは、興世王に見えなくもない。

今のところの作中の描写では、生きている段階の将門をうまく転がして新皇宣言までもっていった印象がある。でも、史実としては将門より前に戦死しているし、陰陽道に秀でているという描写も今のところ作中にないんだよね。

そういう意味では、興世王を使役している、まだ描かれていない誰かがいても不思議ではない。だとしたら、それは誰で、動機は何か?

敗者の復活なので、どんなにコミカルに表面上は描かれたとしても、悲劇にならざるをえないのだが。

 

 

 

魚豊『チ。-地球の運動について-』(第7巻)

あああ、完全に抜けていた!

Pはポルトガルじゃなくて、ポーランドか!!!

羅針盤大航海時代ポルトガルと、信じて疑わなかったのが、勘違いの原因ですね。

ポーランド

ポーランドからならば、フス派の活躍地域は近い。

フス派の本拠地はボヘミア王国ボヘミア王国の首都はプラハ。今のチェコ共和国の首都である。この東側に位置するのが、ポーランドポーランドの首都ワルシャワプラハの距離は約600km(東京から姫路くらい)

14世紀からポーランドは、ポーランド王国リトアニア大公国の事実上の同君連合国として、当時のヨーロッパで最大領域を持つ大国の一つだった。

ざっくりとした言い方をすると、今のポーランドリトアニアベラルーシウクライナの西半分、ラトビアの南半分、という巨大さ。

なお、王朝で見ると、14世紀から16世紀にかけて、ヤギェウォ朝という、ポーランドリトアニアに加えてハンガリーボヘミアも統べる王朝があったので、そうなるともうボヘミアを中心とするフス派の話とポーランドを中心とする『チ。』の話は、同じ国内と言えなくもない。

地図がつながると、ちょっとメタに話を見ることができるから嬉しいね。

 

さて、内容。

なんか、地動説というDNAをいろんな人がバトンリレーのように渡していっているような気がする。

渡す人には渡す人のそれぞれの理由があって、それを助ける人邪魔をする人にもそれぞれの理由がある。登場人物は、劇物である地動説を扱うので、皆、命をかける。それは職責であったり、ロマンだったり、憎しみだったり、お金儲けだったりと、そのベースはみんな違う。なんとなくで命はかけられない。自分を説得できない。だから、他人から理由を問われると、それはどんな稚拙な言葉であっても、臓物から出てくるような、その人にしか紡げない言葉として出てくる。

それを問答として、会話劇として見せることによって、地動説に思いを寄せる人にも焦点が当たる。

歴史的には地動説がどうやって表に出て、従来の天動説を覆していくのかという科学史の面に焦点が当たりがちだ。しかし、それを表に出そうとした人の姿を描くことで、閉塞した状況でもがきながら光を求める人たちが活写されていく。

これは、こんなにも地動説が弾圧されているというフィクションの世界だからこそ描ける物語だろう。

しかし、ここで次回予告が「光あれ」(創世記)なんですわ。ついに、なのか?

特別展「空也上人と六波羅蜜寺」(東京国立博物館)

平成館まるごと使った特別展ではなく、本館の一階のスペースを使っての、こじんまりとした展示。(平成館はポンペイ展をやっている)

会期:2022年3月1日(火)~5月8日(日)

 

www.tnm.jp

 

重要文化財 空也上人立像

運慶の四男康勝による作品(13世紀)。

 

Kuya Portrait

117.6センチと、そんなに大きくない。(快慶の三尺阿弥陀の約90センチより、ひとまわり大きいが)

ここに50センチ程度のお立ち台を設けて、全面をガラスで覆って、360度閲覧できるようになっている。

唱える「南無阿弥陀仏」の6字が仏像になって口から出るというファンタジックなところ以外は、写実的で、今にも歩いていきそうなほど。

 

www.youtube.com

輸送は大変だったらしい。

www.youtube.com

 

二体の地蔵菩薩

定朝作地蔵菩薩立像

定朝は仏師で、11世紀は藤原道長時代の人。定朝様と言われる仏像作りのフレームワークを作った人。運慶快慶は定朝の息子の覚助の流れを汲む。定朝作と確定できるものは唯一、平等院鳳凰堂阿弥陀仏坐像のみ。この六波羅蜜寺地蔵菩薩立像も、六波羅蜜寺は定朝作と謳っているが、東京国立博物館は定朝作とは謳っていない。何か決定的なものがないということなのか。

非常に優美なお顔立ちをされていて、心が安らぐ。

鬘掛地蔵の異名あり。

重要文化財

運慶作地蔵菩薩坐像

こちらは運慶。快慶の阿弥陀立像と、やはりよく似ている。端正。

Jizo Rokuharamitsuji (Unkei attrib)

このほか、運慶とされる像や、平清盛とされる像があり、数は少ないが楽しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと17世紀オランダ絵画展 (東京都美術館)

なんといっても、フェルメール『窓辺で手紙を読む女』の修復後の姿が、日本初見参。

かなり精度が高くて大きさも揃えてある模写も展示されていて、とてもよかった。

本来は、2022年1月22日(土)~4月3日(日)と言う会期だったが、オミクロンのせいで、開始が2月10日(木)からになってしまった。

17世紀オランダ絵画は、個人的にはレンブラントと言うイメージがある。展示されていた絵も、集団肖像画チックなものが多かった。

レンブラントが、1606年生まれ、1669年没、フェルメールは、1632年生まれ、1675年没なので、フェルメールが18歳の1650年にはレンブラントは44歳。生きている時代はかなりかぶっている事になるが、あんまり影響を与え合ったと言う感じでもない。(同時代、同地域と言う意味で、伊藤若冲与謝蕪村みたいな感じ?)

フェルメール『窓辺で手紙を読む女』(Johannes Vermeer "Girl Reading a Letter at an Open Window") 比較

修復前

Jan Vermeer - Girl Reading a Letter at an Open Window

 

修復後

Vermeer - Girl reading a letter at a window, Dresden, 2021 Cupid restoration

 

事前に、こうやって画像で比較してみると、修復前の方が好み。背景がうるさくないから。

実際に見てみると

修復後の絵は、これよりもワントーンくらい明るい感じ。古いニスが除去されたからだろうか。手前のカーテンに当たる日の光とか、金糸のような少女の服の模様が白飛びしそうなほど明るく、絵を華やかにしている。

窓に反射した少女の顔も、修復後の方がはっきりしている。

 

実際に見比べた個人的感想は、修復後の方がちょっとだけ素敵だと思った。

背景が白壁ではないので、少女に自然と視線誘導されるし、画面的に落ち着いている感じがする。

とはいえ、余白を考えると、修復前の白壁も捨てがたい。光のぐあいもいいし。

見る前は、断然、修復前派だったのだが、本物を見ると判断が変わるのは面白い。一次情報って大事ね。

修復の様子

修復の様子のビデオが展示会内で再生されていて、勉強になった。

古いニスを、除去剤を浸した綿棒で取り除く。考古学者が遺跡を掘るように、ナイフで丁寧に上書きされている壁の絵を剥がしていく。

 

ドレスデン国立古典絵画館による、修復の様子のYouTube

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技術的なところを中心に、どう修復していったか、について。

ドイツ語なので、何を話しているのかは、残念ながら私にはダイレクトにはわからない。しかし映像でかなりわかるし、英語字幕で補填すればかなりいい。いい時代だな。

 

山田五郎

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フェルメールの人気、不人気、デ・ホーホなどの同時代の画家などについての蘊蓄なども。

山田氏は、修復反対派なのね。