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見たものと、読んだもの

ソーシャルなネットワークについて with 映画「ソーシャル・ネットワーク」

どうやらこの映画について、寝ながら何か考えていたらしい。なので寝覚めがあんまりよろしうない。

以降、ネタバレふくむので、ご注意あれ。




この映画を、心理サスペンスとしてみると、誰が誰をはめたのか?
途中から訴訟の話を狂言回しにつかうから、そう考えてほしいという監督・脚本の意図はあるとおもう。
マークが、ウィンクルボス兄弟をいつ嵌めた?
マークが、サベリンをいつ嵌めた?
マークが、パーカーをいつ嵌めた?
そして、その心変わりは、いつ起こった?
答えは言葉としては明言されない。大きなシーンとして続きはCMの後でと言わんばかりのタメで大声でここですよと示すことはない。ただ、静かに役者の顔の表情で、それを語らせようという意図を感じる。

しかしこれは、誰が嵌めたかという、サイコサスペンスで語るよりも、別の軸で語りたい。

価値観の違うモノが、どのように出会い、協業し、そして別れるのか、という、文字通りの意味での「ソーシャル・ネットワーク」の事実に基づく成長記なのではないか。

マークはろくでなしだ。
それを印象づけるシーケンスとして映画の冒頭からタイトルロールが流れるまでの間の、彼女と別れるシーンがある。
頭の回転は速い。正確に意図を把握し、論理構成・処理する能力がある。
高慢だ。彼女に対するホスピタリティはない。自分はきっと何者かで、誰もそれをわかってくれないとおもっている、ただの痛いひとだ。同時にそれをうまく処理できず、孤独感を抱えている。それが毒となって、周囲に漏れ出る。そういう、感情移入しづらい主人公として、最初のシーケンスが書かれる。

サベリンはいいひとだ。
家柄も良く裕福で、ろくでなしで友人のいないマークに多少振り回されながらもよく尽くす。

マークとサベリンは、the facebook を立ち上げることに成功する。

ウィンクルボス兄弟は傲慢だ。
家は裕福、ハーバードのファイナルクラブのなかでも重要な地位を占め、後にオリンピック選手となる、典型的なアメリカエリートであり、スクールカーストのトップに君臨し、睥睨し、そのエゴの大きさもそれに準じる。
マークと組んで harverd.edu というメールアカウントがないとつくれないSNSをつくろうとし、マークをそのプログラム担当で迎え入れようとする。
後にマークを、facebook は、ウィンクルボス兄弟のアイデアを盗んだものとして、訴訟を起こす。

マークはウィンクルボス兄弟を嵌めたのか?
わからない。このあたり、映画は時系列を微妙に入れ替えたりしているので、どちらのアイデアが先立ったのかわからないように記述されているようにみえた。
ただ、マークは、ウィンクルボス兄弟に対して、自分が入りたくても入れないクラブにいるという嫉妬、ひとをあごで使おうとする傲慢さを感じ、しっぺ返しをしようとしても不思議ではない、という動機をもっていることが記述される。

映画内の描写では、いかにウィンクルボス兄弟が「アイデアを盗まれた」と怒り、表でも裏でも手を使って罰を与えるか、という描写に終始する。
これでは、マークの「生まれて初めて自分の思い通りに行かなかったから怒っているだけだ」というセリフで説明しつくされてしまう感じがある。
よく考えれば、まだ大学生だ。本当にそうでも、不思議はない。

このマーク vs ウィンクルボス兄弟は、心理の綾というよりも、ネット世代と古き良きアメリカエリートという名の守旧派の戦い、という軸でみるほうがよさそうだ。お互いがお互いを「足を引っ張っている」と感じ、初手から対立するソーシャルネットワーク

マーク vs サベリンは違う。初手は共同、途中からお互いの視点が変わってきて、最後はサベリンが切られるという悲劇で終わる。ひとつのソーシャルネットワークが、うまれ、そして死ぬまで。

もしかしたら、マークのサベリンに対する軸はずっとずれていないのかもしれない。「金づる」ポジション。初期資本金の1,000ドルさえ自分では全く都合がつけられなかったマーク。ぽんと出すサベリン。なんとか都合をつけて18,000ドルを追加するサベリン、自分では資金調達できないマーク。
サベリンの軸は、ずれる。友達に協力するという軸。それが会社組織にすることで、CFOとして働く責任感にシフトし、それはマネタイズするために何かをしたいがうまくいかないという焦りにつながる。
会員数があつまるにつれマネタイズしたいサベリンは、後付けで考えるとたしかに浅はかに見える。facebookがモンスターとして成長していくのが見えず、最初のfacematch時代の規模の視点の高さでしかみれていない。サベリンはカーライル寮のサベリンのままだ。
マークはちがう。狂信者のごとくfacebookの可能性を信じている。その行動は、映画最初のシーケンスのように圧倒的なエゴをまき散らしながらではあるが。

マークの視点を正しいモノとして「保証」してくれるソウルメートが現れる。パーカー。ナップスターを立ち上げた男。最初の会食のシーンでの、マークとサベリンの表情がすべて。パーカーの話を「ワンマンバラエティショー」としてしかみれないサベリン。「生きた伝説」としてわくわく感がどんどん強化されていくマーク。ここでの対立が、もう、決定的だ。
それでも、ふたりはふたりなりにfacebookを考え、行動する。
ビジネス的には、成長のスピードについてこれないひとが脱落するという話。「狡兎死して、良狗煮られる」という、大変残念ながら、よくある話。
サベリンの演技がとてもよく、煮られる側の屈辱を、疑似体験できる。切る側のつらさも、マークの表情を通じて語られるのであるが。最終的にこれは訴訟になり、共同創業者としてサベリンの名前は復活するものの、サベリンの行方は、わからない。

民事の訴訟にはせず、和解するという弁護士に、マークは説得される。
陪審員に対してどういう印象を操作できるかを考えると、負けるし、その露出はビジネスに悪影響だ。多めの金額を払って和解した方がいい」
今までは、サベリンやウィンクルボス兄弟という顔の見える人間とのソーシャルネットワーク。最後は、顔が見えない陪審員に対するソーシャルネットワーク。最後まで「ソーシャル・ネットワーク」の怖さを突き付ける。

顔の見える個対個のソーシャルネットワーク。顔が見えない個対多のソーシャルネットワーク。平行線の、漸近線の、直行して離れていく、ソーシャルネットワーク

題名が、facebook ではなく、"the social network" になっているのは、そのあたりをいいたいためではないかとおもう。

価値観がわかれたときの、つきあいの変え方は、ネット時代だとどうしたらいいのか、これが常識化するまでは、かなり紆余曲折ありそうだ。
実名・匿名論争は、ここにけっこう根深くあるような気がするのでね。

上記のように、楽しい映画としては僕はみることができなかったけれど、同時に上記のように色々考えることができて、面白い映画でした。