cafe de nimben

見たものと、読んだもの

スピーチは、結果が全てで、目的と手段を混同してはならぬのだよ

外国語スピーチコンテストは、何で見られているのか。
基本的には、contents & deliveryという二本の柱がある。
話す内容と、話しぶり、ということだ。

Deliveryは、控えめな演劇だとおもっている

アクターのように派手に手足を動かして注目させるわけでもない。
そもそもコンテストでそれをやると、反則負けになることもある。

視線の誘導・移動、話す間、声の高低と強弱、身ぶり手ぶり。
素で話すとでがちな「えー、あー」の駆逐。
明瞭な発音。

話しぶりというのは、当人比で、できうるかぎり、聞き取りやすく。
わたしなんか自信がないと早口になる場合があるので、そこはぐっと堪える。話しながら話の速度を調整するのは、苦痛に近いコントロールだが、それだけの価値があるとおもってる。

ただ、コンテストとビジネスで違うのは、特に外国語でやる場合は発音よりも内容や話す時の自信だとおもう。
外国語なんて、帰国子女などの例を除けば、母国語のアナウンサーレベルなんて、どうしたってノンネイティブには限界がある。
ないがしろにしていいものではないし、努力は続けるべきだが、限界があることを認めた上で、配分を考えようということだ。

Contentsは is the king

話す内容は、話す人のキャラや立場と切り離せない。
中学生がスピーチで世界平和をいうのは、「微笑ましい」レベルでないと、空論を語っているという審査をされることが多い。リアル厨二が中二病を語っては受けないのだ。
逆に、会社の代表だとか、国の代表となると、その人だけでなく、その組織を代表した発言をすることを求められる。関係性の歴史を仮託される。ひえー、である。
日本語の式辞が当たり障りのないものになっていくのは、まあ、失点を防ぐという意味では当たり前である。

その上で、その時に話す内容は、構造的にきちんとしていることが求められる。
中高レベルだと、よくあるのが掴みのある体験→そこから演繹して考えたこと→そこから帰納して考えたこと、目標の宣言、みたいな感じ。あくまでも地に足がついていることが大事。
(大学生のは経験がないので割愛)

これは大人のスピーチでもいっしょで、起承転結。世界観と具体策。他者に尊敬を、仲間に自信を。
色々なフレームワークはあるだろうけど、実は日頃から仕事をしている内容とかけ離れたものというのは作ることができない。

三次元の彫刻を、一番カッコよく見えるところからライティングして、スクリーンへの影絵として投射する感じ。(lighting/writingをかけてるw)

だから、内容は、それだけで一人歩きできるようにならざるをえない。
おそらくスピーチライターという職業は、それに特化し、構造や周辺の歴史をとりあげて、細かく細かく練り上げていくのだろいうとおもう。そこに重厚さと、当意即妙さをバランスよく配合するんだから、私には神業にしか見えない。

neither delivery nor contents is the king

スピーチの目的は何か。
かっこいい文章を話せるでしょ、綺麗な発音で話せるでしょ、ではない。

話したことによって、人がどう動いてくれるのか、だ。

ビジネスの場合は、それを聞いてもらってから、「いっしょにガンバろう」「この会社と付き合うといいことがあるかも」「その商品売ってくれ」というような明確なゴールがあり、そういう結果を出すために何ができるか、というところにフォーカスする必要がある。

そのためには、そういう内容を話す必要があるし、そういう話し方をする必要がある。
目的と手段が逆転しがちなところだから何度でも繰り返すが、「かっこよく」「かしこく」見られることは、主たる目的ではない。

だから、発音が下手くそでも、内容に漏れや抜けがあっても、話した後に目的通りひとが動いてくれるのならば、それは成功なのだ。

Contents/Deliveryはあくまでも手段にすぎないんだとおもっている。