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見たものと、読んだもの

ドラマ『わたしを離さないで』第7話

小説を書く時のコツとして、「異常な枠組みのなかで普通の人を書く」か「普通の枠組みのなかで異常な人を書く」かどちらか、というお話がある。

  • 普通の枠組みのなかで普通の人を書いても、普通すぎて誰も手にとらない。
  • 異常な枠組みの中で異常な人を書いたら、何が書いてあるのか作者以外わからない

カズオ・イシグロのこの作品は、明らかに異常な枠組みのなかで描かれているから、書いてあるキャラクターは、ごくごく普通の人たちなんだろう。

そうなったとき、このキャラクターたちはどのように置かれるべきだったのだろうかということを良く考える。

陽光学苑という閉鎖空間から出て、介護人として働くときは、一般人と同じ生活をするというソリューションになるのだろうか。わたしが支配者であれば、「一般人」と暮らしをさせ、支払いは専用カードでさせ、常に「あのひとは提供者だ」と言われるようなところに提供者/介護人をおけば、反乱が起こると考えてしまうのだけど。

また、先ほどの外から内の反対で、内から外を考えると、インターネットがあるなかで、世界のいろいろな情報にアクセスできれば、少なくとも一部の提供者は、自分が「家畜」であることに気がついて反乱を起こすとおもう。そう、真実のように。

これは維持がむずかしいのではなかろうか。

陽光学苑よりももうちよっと規模の大きいゲーティッドシティを作り、ほとんどが提供者とその出身の介護人+事情がわかっている外部からの口止めされた一般人で構成された閉鎖社会をつくるというドラマ上の演出は考えなかったのだろうか? (携帯電話やインターネットの概念がない世界が作れると思うのだけど)

非人道的すぎる? いや、「提供者」という概念だけでも十分非人道的だよね。

原作は1990年代末のイギリスとして描かれている。本ドラマは現代/2010年代の日本として書かれているようにおもう(明示されていないが、車とか携帯電話をみるとそんな感じがする)であるならば、なぜに2010年代であるべき理由を明示して設定をしないのだろうね。今、あなたの物語としてみて欲しいというのであえて現代にしたのであれば、くどくない程度に説明がほしいなあ。

インターネットと携帯電話は、ドラマのリアリティを決定的に変えてしまったという典型例かもね。時代劇でもない限り、その二つがない、ないし、活用していないと奇妙に思える。