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見たものと、読んだもの

児玉哲彦『人工知能は私たちを滅ぼすのか』ダイヤモンド社2016

人工知能について歴史を踏まえて俯瞰するのによい作品。

キリスト教的なものを補助線としてストーリー展開をするので、オカルティックに感じる向きもあるかもしれない。そこは筆者も自覚があるようなので、暴走しないように冷静に抑えた感じになっている。ただ、ある程度ファンタシー好きな素養がないと例がわかりづらいかも。

 

人工知能は私たちを滅ぼすのか―――計算機が神になる100年の物語

人工知能は私たちを滅ぼすのか―――計算機が神になる100年の物語

 

 

触れている範囲は、落合陽一『魔法の世紀』とかなり重なる部分がある。逆にそのための補助線に各々の書のオリジナリティがあるので、そういう比較を試みたい。
ほぼ同じところは、人工知能の歴史からこれまでとこれからを紐解いている点。筆者はどちらともphDだし、事実考証という点でもスポットを当てる対象は変わらない。
 
異なるところは視点。児玉の本は、キリスト教の聖書的なものをバックボーンに取り込み、ストーリーを展開している。落合のは個人史であり、自分がこれから何を作ろうかという視点だ。
 
児玉の本は、未来からの今を振り返ったらどう見えるかという田中芳樹SFのような視点で描いている。キリスト教バックボーンにするところは狂言回しの女子大生の大学を上智大学にすることで道を作る。聖杯伝説にアーサー王と円卓の騎士を登場させるなど、スァンタシーフリークには馴染みがあるから、映画、アニメ、ファンタジー、SFに興味がある人にはとっつきやすいはず。逆にそちらに引っ張られて、人工知能の歴史から未来に対して、現実としてどうなっていくかを見ようとすると、予断が入りすぎるかもしれない。
 
ファンタジー余談については落合の方が少なくてよいかも。ただし、落合の研究そのものに興味が持てなければ、落合本の方は読むのが苦痛かもしれない。痛し痒しだが、可能ならどちらも読んで複眼的に考えることをお勧めする。
 
本でなければ、NHKスペシャルの『NEXT WORLD』2015 が児玉世界観をうまく映像化していると思う。
まあ、シンギュラリティ以降を人間が想像するのはかなり難しい。Windows95の世界から2016年の現在を予想するのが難しかったように。
 
もう一つ。シンギュラリティ以降の世界は、先進国でネットと電気が潤沢にあればまだ予想可能と思うが、そのどちらもない世界の面積の方が広い点と、天災人災で先進国でもその前提環境が壊れた時どうなるのかは、予断を許さないところ。
 
アインシュタインのセリフのように、「第三次世界大戦がどういう兵器で戦われるのかはわからないが、第四次世界大戦は棍棒と石で戦われるだろう」を賢く回避できるのかどうか、なかなか難しいところだ。

“I know not with what weapons World War III will be fought, but World War IV will be fought with sticks and stones.”

 
シンギュラリティ以降のもう一つの律速ポイントは人間だと思っている。どんなに科学技術が発達しても使うのは人間だから、人間が賢くならないとどうもならない。残念ながらマクロでは人間はそんなに賢くなっているようには思わない。まあ、そういう絶望が数々のディストピア小説や映画になるんでしょうけど。