『シン・ゴジラ』の興行成績を抜くのではという話をきき、え、そんなにいいのかとおもって、あわてて見にいった。
ジュブナイルファンタシーなので、高校大学生のデートムービーなのかな。
どこまで計算されていたのかわからないけれど、役者というよりも演出や脚本がたどたどしいところがあり、逆にそれが、じゃあ次はどうなるのかというサスペンスを生むという良循環。でも、新海らしい感じがいろいろ香る。
新海監督って、フェチのひとだよね。
た ぶんターゲット層とジャンルが似ている細田守 『時をかける少女』との比較がわかりやすいんだけど。下世話ないいかただと、パンツを描く新海と描かない細田。そう、ちょっと性的な目線がある。口噛み酒 や神楽の衣装に対するフェチ感とそれと裏腹のかすかな嫌悪感。中高生っぽい初々しさというよりも、生臭さというか。高校生の時に彼女とこの映画にいったと したら、当該シーンで赤面して俯いているかもね。で、上映後に意識しすぎ馬鹿じゃないとかいってため息つかれるの。
細かいアラというかハテナ点はいくらかあって、でもそれをいうのはよしとく。
瀧だったり三葉だったりに、どれだけ感情移入できて、ひとときの青春を味わったなら、それでいいじゃないか、というファンタシー。
話の展開は、ちょっとびっくりだったので、ここからネタバレへ。
最初は、高校生の男女入れ替わりものだとおもっていたのですよ。
大林宣彦『転校生』的な。
やられた。時間SFものになるとは。
いやあ、違和感はたしかに最初からあった。
彗星でかすぎるでしょ、とか。なんで電話とかLINEでリアルタイムに話さないのとか。
彗星はきれいさを強調するための演出だとおもったし、電話は田舎だから携帯の電波がわるいのだと思い込んでいた。ミスディレクションにやられた。
隕石で壊滅した糸守町という絵が出てきた時の衝撃は、ほんとうに大きかった。
それまで、にやにやと青春群像日常系+入れ替わりものかあ、はいはい、わかってますよ、というちょっと生暖かい目でみていたのが、一気に吹き飛んだ。
そこからは急転直下、平行世界SFというか時間SFというか、運命を変えるために奮闘するふたりの戦い。
新海監督って、重要なところを映さないのが好きなんだとおもっている。
今回は、けっこう描いている。町に隕石が落ちるところとか、三葉が消えるところとか。でも、わたしなら決して切らない、三葉が父である町長を説得するシーンは映さない。時間という運命とたたかうという文脈なら、そして序盤に父娘の断絶を書いていたのなら、そのふたつを回収するためには必須だけど、書かない。
不在の存在を描いたあとで、それをどうするのかというのが、作家性なんだいとおもうのだが、『秒速5センチメートル』だと何も描かなかったが、今回は正道で、タイトルを叫ぶんだよね。でもそのせいか、
山崎まさよし / One more time,One more chance
どうしても、こちらが頭の中で演奏されてしまい、RADWIMPSの演奏が頭に入らなかった。
不在の彼女をみつける話としては、この曲が好きすぎるからかもね。
(追記)
自分の備忘のために書く。
相手の名前をどちらも忘れるということは、お互いがお互いを一番大事なものとおもって、それを引き換えに並行世界をわたる、神社のご神体のある石舞台の「あの世」を行き来するという切符と引き換えだ。
おばあちゃんたち=神社の娘たちは、代々、相手の並行世界に夢で入れ替わるという力がそなわっていた。もしかしたら実際に会えたひともいたかもしれないが、ぼくとしては三葉が最初で最後の回避者で、その血の流れを終わらせるのと引き換えに瀧に最後出会えるのだと信じたい。
「最後」の回避者なのは、もう神社がなくなってしまうから。町がなくなったし、三葉は神社の子ではなくなった。
切符と引き換えた思いのはずだったが、名前も顔もわからなくなっても何かが残り、それでお互いがお互いを探し出せる、という運命の出会いは、最後の神様のご褒美かもしれないね。最後に出会って終わるけど、そこで「仲良く幸せに暮らしましたとさ」とここはひねくれずに終わるのがいいよね。
ご神体のある場所もクレーターなので、おそらくあそこも隕石によってできた。千年に一度隕石がおちるところで、何かの祈りが並行世界への門をひらく神職になったのではないか、という背景をでっちあげてみる。