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見たものと、読んだもの

ドゥニ・ヴィルヌーヴ『ブレードランナー 2049』2017米国

何よりも目に美しい映画だった。

昔のハリウッド映画の様な、どのシーンを一時停止にしてもスチル写真として販売できる様な、解像度、構図、色、被写界深度

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前作である『ブレードランナー』の世界観を丁寧に表す設定と音楽。

レプリカントにしか見えない、ライアン・ゴズリングデイヴ・バウティスタ

その中で一人「人」としての存在感を示す、ハリソン・フォード

たまたま、ライアン祭りになってしまって、『ララランド』とほぼ同時に見たのだが、ライアンはカメレオン系ではなく、ライアンという役割を行うのがうまい役者なんだな、きっと。こういう垢抜けたハンサムな役者は、監督によって、コメディにもシリアスにも使えそうでいい感じだ。

個人的にはデイヴが面白かった。いや、私にとってはWWEバティスタなんだけど、あの「アニマル」がこういう演技をすることができるというのが衝撃的で。

(『ガーディアンオブギャラクシー』は未見)

他は、『攻殻機動隊』的な引用もあり、綺麗な、綺麗な作品だった。

よく考えたら、ブレードランナーで描かれた湿り気とメガロポリスのLAとは違うのに、直系後継作品と思えるのだから、デザインの換骨奪胎がうまいんだろうなあ。

 

欠点?

ある意味、世界観に忠実すぎて破綻がないところが、欠点か。

いや、スマホがないのは「この世界にスティーブ・ジョブズがいなかったから」というウイットに富んだ答えもいいんだけど、それだけオリジナルの『ブレードランナー』が、今までの映画の世界観を壊した衝撃が大きかったのだろうなあ。今『七人の侍』をみて、ありきたりだと思ってしまう様な。

脚本というか、謎については、正直よくわからない。

前回は、生きるとは何かを、アンドロイド/レプリカントが生きることを定義しようとすることで、ブーメランの様に人間は何をしたら生きるということになるのかという命題をぶつけてきたのだと思う。

今回は、アンドロイド/レプリカントの生殖とは何かを命題とし、そうすることで人とは別れて生きていきたいアンドロイドを描くのだが、正直、生殖して生きていきたいというならば、そうしたい渇望の描き方が淡々としすぎな様な気がする。

キャラクターの中で、生きていたいという欲を出しているレプリカントは、デッカードの様な気がする。

人がレプリカントの安定化のために擬似記憶を植え付けるのは良い。だが、人間が小賢しくレプリカントを静かにさせるものだったのだが、逆にレプリカントの生への渇望の大元になってしまうという皮肉にならないのかなあ。リバイバル版の『猿の惑星』の様に、俺たちは俺たちで生きて生きたいのだ、という強い思いを見せるには、弱い様な気がする。

という意味で、物語の構造としては、あんまり強い喜びは感じなかった。

ここら辺がお好きな方には、手塚治虫火の鳥』を強くお勧めしたい。