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見たものと、読んだもの

『アリスのままで / Still Alice』2014 US

I am not suffering. I am strugging. / 苦しんでいるんじゃないの。もがいているの。

50歳という若さで、アルツハイマー病にかかった、コロンビア大学*1言語学者が自分を失うまでの短い時間を淡々と描く。

主演女優のジュリアン・ムーア / Julianne Mooreは、この作品でアカデミー主演女優賞を獲得。知性溢れる大学教授から、娘の顔すら曖昧になるときの顔の表情の一つ一つが、オスカーにふさわしい凄まじい演技だった。↓ いつもジョギングしている道で迷ってしまったときの顔。

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物語の構造

最初のシーン、バースデーパーティーで夫から "To the most beautiful and the most intelligent woman I have known in my entire life / 私の全人生で知っている女性の中で、最も美しく聡明な女性に乾杯" と言われるところから始まり、はみ出しものだった次女から詩を読んでもらって感想をたどたどしく述べるところで終わる。

それをみて嗤う映画ではない。その状況になっても自分が自分である尊厳を持とうとして struggle する一人の人間の話だ。そして最期までアリスは、映画のタイトルの通り「アリスのまま」だった。 

もどかしさを映像で

映像は明るくキレイで、おどろおどろしいところは全くなく、いい人ばかりで「消毒」されている感じすらする。映像技術的にはぼかしが効果的に使われている。文字や映像がぼやけて見えないもどかしさ、これをもっと長めにやって怒りに近いところまで見せる。照明も構図も含めて美しい。

生々しく描かれていたら、私は最後まで見ることはできなかっただろう。

20年前以上に亡くなった私の祖母は、最期は私のことを私とわからなかった。認知症。親愛のこもったその笑顔のなかにほんのわずかの引っ掛かりを感じた。よそよそしさ。笑顔は、孫に向けたものではなく、親切な他人に向けたものだった。私がもうわからない。それに気がついた時、私の心の中で何かが永久に崩れ去った気がした。それを思い出した。

それぞれに突きつけられる現実の手厳しさ

アリスは、自分が頼りにして生きてきた知性のほぼすべてを失う。記憶を失い、単語を失い、方向感覚を失い、職を失い、人からの尊厳も失う。「ガンならよかった」と夫に語るシーンは、「地獄です」とスピーチするのは、多くの認知症患者の本音なのだろう。自分が失いつつあることだけは自覚しながら生きていくのならば。そうなった時に自分が耐えられるか、自信がない。自殺することすら叶わないなんて!

は、激務であるはずにも関わらず、甲斐甲斐しく介護をしている。大出世となるヘッドハントの話が出る。千載一遇。隣の州に引っ越しが必要だが、自分の仕事の野望を叶え、かつ、アリスに最高の介護環境を用意できる。(かつ、莫大になるであろう介護費用も賄える算段がつく)

が、アリスは知らない土地にいくことを拒む。家から徒歩圏内にあり、かつて教鞭をとっていたコロンビア大学の記憶すら失っているアリスが、まだ過去と繋がりがあると思えるのは、長年住んできたこの家だから。日に日に失われていく過去との繋がりが、日に日に失われるからこそ、アリスは自分をアリスと信じられるよすがになっているから。

選択肢は二つになってしまう。ヘッドハントを取ればアリスと離れることになり、アリスを取れば自分の野望を諦めることになる。究極の二択。

割り切ってアリスを残して引っ越しを決意したはずが、次女に、「お前は俺よりもいい人間だ / You are a better man than I am」と言ってハグしながら涙を流す。どちらを選んだとしても、おそらく死ぬまで悔やむことになる。

次女は、エリート家系にも関わらず大学よりも演劇を選ぶ。若年性アルツハイマー遺伝子検査は拒否。最後は、恋人とも別れ、西海岸から引っ越してきて、実家に移り、母の介護を担う。ブロードウェイでやることはいくらでもあるからと説明しつつ。エリート学業ではなく演劇が、アリスがこの世の人々との絆の最後の糸になるのは、皮肉なことだ。(エリート批判という感じではないけれど)

主に描かれるのはこの四人。あまり描かれないが長男長女もいる。

長女は、検査により陽性であることを知る。つまり自分も母の歳くらいに母が今戦っている病と戦うことになることを眼前に突きつけられる。生まれる双子には、人工授精によってその因子を切るという意志を感じる。あまり取り乱す姿は見せず、毅然と論理的に考える。時に、冷たく感じるほどに。

長男は検査をして陰性であることがわかる。あとは認知症会議に、父の名代として連れ添うくらいか。あまり描かれない。まだ学生だからしょうがないかも。

「消毒された」と書いた。この家庭がここまでのケアを買えなかったら? シモ系の話はほとんど出てこないし、出ても表現もマイルドだが、そこをリアリティを持って描いていたら? 徘徊は? 最期まで次女だけで介護するのだったら? 描かれていないが、想像したくない現実は、もうそこら中にありふれているのだ。

認知症介護の会議でのスピーチ

この記事の本文冒頭に引用したセリフは、アリスが現役患者として、アルツハイマー病についてスピーチをするときの一節。短いスピーチなのだが、自分で書くのに三日「も」かかっている。

Skypeを通じて、次女リディアにスピーチの練習をするが、この時のものは科学的なもので、別に医者から聞くからいいよ、というくらいの内容だった。リディアからもっと個人的なものにすればと言われて「もう全部この中に入っているわよ!」と激昂したが、本番では書き換えていた。少なくとも「アミロイド」や「セクレターゼ阻害剤」などの専門用語は削除されている。そして現役の患者がどう感じているかという、アリスにしか話せない内容になっている。そこが、このスピーチが胸に残るところだ。

この時点でアリスはすでに原稿を頭で覚えることはできない。原稿を読みながらであっても、どこまで読んだかもわからなくなる。同じところを何度も繰り返し読まないようにするため、蛍光ペンでどこまで話したかを線を引きながら話す。こんな状態の私だからもうダメなんですと自分を責めることもなく、背筋を伸ばし、ジョークを言い、取り繕わない。これが、自己尊厳か、という凛とした姿。

このスピーチのところだけでも、何度でも繰り返し見たい内容だ。

自分が社会から見て奇妙に見られてしまうかもしれないが、病気の状態がどうかは別の問題として、自分が自分であろうとすることを諦めない。過去との繋がりは、記憶の剥落によってだんだんなくなっていく。未来はわからない。だから、今、この瞬間を生きると宣言する。

Please do not think that I am suffering. I am not suffering. I am struggling. Struggling to be a part of things. Stay connected to who I once was. So living in the moment I tell myself. It's really all I can do. Live in the moment. And not beat myself up too much. And not beat myself up too much for mastering "the art of losing" 

[拙訳] 私が苦しんでいるとは思わないでください。私は苦しんでいるのではなく、もがいているのです。何かの一部であり続けたいと、かつての自分との繋がりを持ち続けたいともがいています。そう、この瞬間を生きるのだ、と自分の言い聞かせます。本当にこれしかできないのです。今この瞬間を生きる。そして、自分を責めすぎない。そして、「失う技術」をマスターしたからと言って自分を責めすぎない。*2

このスピーチの内容は原作小説からもだいぶ変えられている。映画の方が単語も難しくなく、わかりやすい。ジュリアン・ムーアがしっくりこないと言って3回ほど書き直してもらったらしい。書き直したのは監督・脚本のリチャード・グラツァー/Richard Glatzer。撮影時、自身はALSが進行し、口で話すことができない状態。iPadを右足の親指で操作して脚本を書いたり演出をしていたらしい。リチャードの実体験も含めてこういう書き方になったのかもしれない。*3

認知ができなくなった後に残るものは

色々認知ができなくなった後で残るものは、自分の何なのだろうか? そこに知性も言語も過去も方向感覚もわからなくなった時に最後に残るものは? それが「尊厳」だとすれば、それはどのようにしたら得られるものなのか。

私の祖母は、最期まで穏やかで、暴言などを吐くこともなく、介護の職員さんたちと接することができていたらしい。

そういう例があるということだけを胸に、いずれ来る老後に備えるしかない。

体は、金さえあればサイボーグにできる時代が来るかもしれないが、脳は、なんとかなる日が来るんだろうか。

自分はどう老化して生きて死を迎えるのか、喉元に剣を突き立てられたような気がした。

 

次女リディアが最後に朗読する詩 : Night Flight to San Francisco

舞台やテレビドラマになっている "Angels in America" の第二部ペレストロイカ /Perestroika に出てくるもののようです。作者は、トニー・クシュナー /Tony Kushner。詩の原文はこちら。

www.goodreads.com

"Night flight to San Francisco" から始まり、極めて幻想的写実性を持って表現されている詩。飢饉、戦争、疫病などで非業の死を遂げた人々の魂が、成層圏の空の高みで修復されるのが見えるんだと言った後のこのセリフ。

Nothing’s lost forever. In this world, there’s a kind of painful progress. Longing for what we’ve left behind, and dreaming ahead. At least I think that’s so.

[拙訳] 永遠に失われてしまうものなど、何もないのだ。この世には、痛みを伴う進歩というものがある。過去に置き去りにしてきたものを切望したり、そして未来に夢見たり。少なくとも、そういうものだと私は思う。*4 

最後のここの部分が言いたかったのかな。スピーチの中でアリスが語る、今を生きる / Living in the moment と繋がっていると思う。アリスが記憶を含め色んなものを失っても、それはこの世にアリスがいなかった、いなくてもよかった、ということではない。生きていた意味はそこにあり、どんなになっても、アリスは「アリスのままで」あるのだ。

この詩の感想を次女に問われてアリスは "Love" というのだが、私は "Hope" と感じた。

 

 

"Angels in Ameria" は、去年2018年のトニー賞リバイバル演劇部門受賞ですね。

www.tonyawards.com

この詩をわざわざ最後に持ってきてあるのだから、元ネタを知っているともっと深くこの映画を理解できたのかもしれない。どういう文脈でこの詩が語られるんだろうか。寡聞にして知らなくて残念。

なお作者のトニー・クシュナーは、舞台の代表作がこの『エンジェルズ・イン・アメリカ』で、映画の脚本だと、スピルバーグ作品の『ミュンヘン』がある。私は未見。

www.youtube.com

 

 

参考: Twitterマンガ。患者の視点で。

togetter.com

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*1:原作小説ではハーバード大学らしい。撮影の都合かな?

*2:"And not beat myself up too much" が繰り返されるのは、おそらくは、ここで、本当にこの文章を読んだのかどうか曖昧になって繰り返したという演技と私は感じた

*3:なお、リチャードはジュリアンがオスカーを受賞した直後に亡くなっている。享年63。正確にはオスカーが2015年2月22日、リチャードがなくなったのが同年3月10日。

*4:Nothing's lost forever って、Nothing lasts forever. というよく使われる表現のもじりかな。「永遠に続くものなど何もない」→「永遠に失われるものなど何もない」正反対の意味を、ほとんど同じ音で表すのはすごい。