ファンゴッホのあるウイングだが、前半はフランスとの戦い。
フランス革命軍によって、1795年にフランスの衛星国バタヴィア共和国となる。その後、初代ナポレオンの弟のルイ・ナポレオンを国王とするホラント王国が1806年に樹立される。苦難の歴史である。せっかくなので、編年的に調べてみた。
初代オランダ王 ルイ・ナポレオン 1809年
1806年に即位した初代オランダ王 Lodewijk I (ローデウェイク1世。LodewijkはLouisのオランダ語読み) として記述されている、ルイ・ナポレオン。ナポレオンの傀儡とはならずそれなりに誠実に政治を行っていたらしく、ちょっと好意的な記述だった。
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左手にバトンを持っていたがそれが修正された痕跡があるということだが、私はそれは見逃している。
彼の旗が残っている。
英訳すると
"Louis Napoleon, King of Holland, presents to his capital Amsterdam these trophies seized by brave Netherlanders from their enemies"
実質的にフランス帝国によってオランダが滅ぼされている。となると生き馬の目を抜くこの世の中、間隙を縫ってイギリスが日本の出島にちょっかいをかけた。これが、1808年のフェートン号事件。ローデウェイク1世の治世中ですね。
ローデウェイク1世は、1810年にナポレオンに退位させられる。彼の次男がローデウェイク2世として国王の座につくが10日で剥奪。オランダはフランス帝国の直轄領となる。
1812年、フランスはロシアと戦争開始。9月にモスクワを陥とすものの、焦土作戦で大敗北。70万人で始めた戦いが、37万人戦死20万人捕虜という大敗。12月に戻ってきたときは5千人という、いわゆる冬将軍に負けた、というやつです。
1813年には、第6次対仏大同盟による戦いで破れ、フランス軍潰走。フランスはオランダへのコントロールを失い、逆にオランダはネーデルランド公国を樹立。
1814年4月にナポレオン退位
1815年2月に、ナポレオンがエルバ島から抜け出す。
3月に、ルイ18世を追い落とし、再び帝位に(いわゆる百日天下)。
6月9日、1814年9月から行われていた『会議は踊る』で有名なウイーン会議もなんとか結論を出し、ウイーン議定書成立。ここでネーデルランド連合王国が設立。ネーデルランド連合王国は、現在の、オランダ王国、ベルギー(1930年独立 ベルギーがカトリック、オランダがプロテスタントという違いなど)とルクセンブルグ大公国(1815年はオランダと王を共にする同君連合。1890年に解消)からなる。(もともと同じ国だから「ベネルクス三国」と言われてもあまり違和感ないってことか)
6月18日、ワーテルローの戦い。
ワーテルローの戦い / 1842年 (ヤン・ヴィレム・ピーネマン/ Jan Willem Pieneman)
1815年にあったワーテルローの戦いが、初代ナポレオン率いるフランス帝国軍と、英蘭連合軍+プロイセン軍の戦いなので、オランダにもこの話があって当然といえば当然。
フランス軍というかナポレオン軍はここで大敗退して、ナポレオンは6月22日に退位。セントヘレナ島に流される。ナポレオンの治世を永久に終わらせる大きな戦い。
そういえば、ルーブルでワーテルローの戦いって見たかどうか全く記憶にないな。敗者側だからないのかもしれない。ドイツにはあるのかな?
過去記事でワーテルローの戦いに触れた博物館はこちら。イギリス側の見方です。
なお、ワーテルローはフランス語読み。英語読みだとWaterloo。ロンドンの大きな駅ですね。とはいえ、この地名は世界各国にあるようです。*1
ウィレム1世 (1819年作)
ワーテルロー後、オランダ王国が成立してから最初の王、 ウィレム1世。
By Joseph Paelinck -
ウィレム2世 (1839年作)
ベルギー独立前夜にはブリュッセルに住み、オランダとベルギーを分けたほうがいいとウィレム1世に進言していたほどの進歩的な王様(当時は王太子)だったようです。
そういう政治的なことはともかく、軍服ながらリラックスした表情と、犬のかわいらしさとがマッチして、とても好きな絵です。