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見たものと、読んだもの

リッチー・スミス『ジャドヴィル包囲戦 - 6日間の戦い-』2016

初めてUNのPeace Keeper としてコンゴに派兵された158名のアイルランド兵は、3,000名の敵に包囲されて孤立無援という絶望的な状況に置かれた指揮官は、どう決断するのか? という、実話をベースとしたお話。


The Siege of Jadotville - Main Trailer - Only on Netflix 7 October

 

時代背景

時は1961年。1月に就任したケネディ米大統領主導で、4月には米国がキューバに侵攻、失敗するピッグス湾事件発生。キューバ敵の敵は味方として、ソ連との関係を深める。喉元にソ連から匕首を突きつけられる状態のアメリカは緊張を高め、翌1962年のキューバ危機へと繋がる。そういう、第三次世界大戦の匂いが濃厚に漂う、そんな時代。

前年の1960年はアフリカの年と言われ17か国が独立を宣言。この中に、ベルギーの植民地だったコンゴ共和国がある。

コンゴ動乱略年表:この映画の時点まで

1960-1965年にわたるコンゴ動乱は、米ソ代理戦争ともなり、動乱中10万人が殺害されたとみられる悲惨な内戦だ。

 

1960年6月:ベルギーからコンゴ共和国が独立。中央政府が機能せず、治安が悪化。

1960年7月:南部のカタンガ州がカタンガ国として分離独立を宣言。

国連はカタンガの独立を認めず。

となって、内戦状態に突入。 

1960年8月:カタンガ州の北側に位置する南カサイ国も分離独立を宣言。

1960年8月:ルムンバ首相主導で南カサイに進軍。民間人の大量虐殺。

1960年9月:カサブブ大統領が、南カサイ大量虐殺を理由にルムンバ首相を更迭。

1960年9月:陸軍のモブツが無血クーデター、実権を握る。ルムンバ首相拘束。

 

1961年1月:ルムンバ元首相が処刑される。

1961年2月:モブツにより、カサブブが大統領に再任命。

1961年2月:チョンベは立場の強化のために、外国人傭兵を輸入。国連平和維持軍と傭兵隊との緊張が高まる。

1961年6月:オブライエンがカタンガの州都に着任

1961年7月:国連軍が約20,000名に増員

1961年8月:国連軍が、カタンガ憲兵隊の武装解除、外国人傭兵の逮捕/追放を開始

1961年9月:国連軍が、カタンガ傭兵部隊の拘留、カタンガ国政府幹部逮捕を目指す、モーソー作戦開始。「ジャドヴィル包囲戦」

1961年9月:コンゴ動乱の停戦調停に赴いていた国連事務総長ハマーショルド、飛行機事故で死去。

(動乱はまだまだ続く)

 

映画の感想

映画で描かれるのは、初めて国連平和維持軍として派兵されることになった実戦未経験のアイルランド軍がどうなるのか?

無能な上司によって適切なサポートが受けられない理不尽さ

その中で頑張るアイルランド

というところだ。

実戦未経験ということを強調するためか、隊員たちのちょっと牧歌的なところが描かれているのは、対比上おもしろい。

 

英雄

主役:パット・クインラン少佐 Commandant Pat Quinlan

この人、スーパーマンだよね。実戦未経験、戦史書は全て読破。頭でっかちで教条的なエリートかと思ったら、ヤバさへの嗅覚、臨機応変な対応、命がけで部下を守る、敵の嫌がることを確実にこなして足止めする。最後まで諦めない。まあ、賢すぎて、ボスマネージメントに失敗するんだけれど。

しかし、劇映画としては、淡々と書きすぎでは? もうちょっと英雄的に書いてもバチは当たらないのではないだろうか。かっこいいんだけど、ちょっと感情移入しづらい。

ある程度なんでもできるが普通の人で、大変な状況の中で乗り切るといえば『プライベートライアン』のトム・ハンクス演じるミラー大尉なのだが、ああ描くにはもっと尺が必要かも。

ただ、事実をベースにしているので、過剰に盛ることはしなかったのかもしれない。

悪役がすっきりしない

チョンベ カタンガ大統領は割とステレオタイプ的な悪役(悪くて強い敵)として描かれるが、描写は少ない。現地の傭兵隊長は、したたかで強くてかっこいい敵として描かれる。となると、明確な悪役は?

事実上、悪役は、カタンガ軍というよりも、国連軍のトップにあたるオブライエン博士だ。

戦略レベルの失敗がオブライエン博士(Conor Cruise O'Brien  :のちにアイルランド郵政大臣など歴任)によってもたらされた。彼は自己愛が強く、国連軍アイルランド舞台を見捨てる卑怯で無能な上司という悪役を担わされている。無能な味方と、有能な敵、どっちが手強いか、というのは、創業と守成どちらが難しいかという話と同じくらい論争のある話ではあるのだが。

敵よりも味方を悪役にするのは、劇映画としてはちょっと弱かった気もする。爽快感という意味で。

ブラッカイマー映画だったら、そういう中でも戦った英雄的なアイルランド軍という様に描かれるんじゃない?

ああ書かざるを得なかった何かがあるのだろうか? そう考えてオブライエンを深堀してみた。

オブライエンを深堀り

イギリスのガーディアン紙によるオブライエン批評だが

He had stirred up a hornets' nest internationally. One of the most vocal critics was Paul-Henri Spaak, then Belgian foreign minister and now remembered as an architect of European unity. "Who is Conor Cruise O'Brien?" asked Harold Macmillan, and answered his own question: "An unimportant, expendable man." Pressures on him, on the UN and on the Irish government multiplied. Hammarskjold was forced to desert his protege, then died in a plane crash and his successor, U Thant, formally agreed to a request from Aiken that O'Brien be released from further UN duty. Almost immediately, he announced his resignation from Irish government service.

Conor Cruise O'Brien | The Observer | The Guardian

要約:

彼は国際的にスズメバチの巣(=コンゴ)をかき混ぜた。当時のベルギー外相は彼の批判の急先鋒で「コナー・クルーズ・オブライエンとは誰だ? 重要ではない、使い捨ての男だ」と容赦ない批判をぶつけ、彼と国連とアイルランド政府に対してプレッシャーをかける。国連事務総長はオブライエンを切り捨て、その後飛行機事故で亡くなる。次の国連事務総長は、オブライエンを更迭する。

と、国際的な批判を浴びた人物として描いている。

まあ、ベルギーから見たら敵だからねぇ、こういう言われ方をするのはしょうがないかも。と言ってもハマーショルド国連事務総長は守ってあげないといけないんじゃないかな?

その後、このコンゴ動乱のことをオブライエンは 1969年に"To Katanga and Back" という本にまとめている。

一応、ちょっとだけ擁護しておくと、国家主権の立場から、軍事行動を行うのは非常に悪手ではあるので、行動が縛られるのは政略上仕方がない。また、ハマーショルド国連事務総長に手足を縛られてどうしようもなかった、という説もあるので、同情できるところもある。

しかし戦略レベルでは、投入した部隊が安全な状態にするのは必須。補給線が途絶えて包囲されやすいところに部隊をおくというのは、味方の死体を生産する行為であって、戦略上おかしいと言わざるを得ない。ただ、その戦略レベルは、オブライエンの範疇だったのか、アイルランド軍の範疇だったのか、その辺りは描かれていないので不明だ。実戦未経験だったのは前線の部隊だけではなく輜重部隊もだったとすると、一概にオブライアンだけを責めるのはフェアではない可能性もある。(まあ、そこまで確認する気力はないのだが)

包囲戦にフォーカスするならしょうがないのだが、オブライエンを真ん中に据えて、アメリカ、ソ連、ベルギー、カタンガコンゴに振り回されながらも前に進んでいくという物語だと、もしかするとオブライエンは泥臭いけれどかっこいい主役をはれたかもしれないね。立場が変わると見えるものも違う。

参考:コンゴ動乱略年表:もうちょっと詳しく&終わりまで

1960年6月:ベルギーからコンゴ共和国として独立。大統領に保守派のカサブブ、首相に革新派のルムンバ就任。このまま事実上の支配権を持ち続けたいベルギー(&コンゴ保守派)と、独立したのだからその構造を打破したいコンゴ革新派との間の軋轢が表面化。カサブブとルムンバの対立により、中央政府が機能しない。治安が悪化。ベルギーは自国民保護を理由に派兵。要所を制圧。

1960年7月:ベルギーの支援を受け、チョンベが南部のカタンガ州をカタンガ国として分離独立を宣言。チョンベはカタンガ国大統領を名乗る。カタンガマンハッタン計画の材料となったウラン鉱床などでコンゴ共和国の中ではかなり豊かな地域だった。

国連が事態収拾に動く。

1/ コンゴ共和国からのベルギー軍撤退要請、2/ ハマーショルド国連事務総長コンゴへ派兵する国連軍編成の権限付与するという安全保障理事会決議143が可決。国連軍の派兵が決まった。

とは言っても国連が主権国家に軍事介入をすることは好ましくないと、あまり積極策ではなかった。

とはいえ、当然カタンガは面白くないので、ベルギー人将校や傭兵による武力強化を行う。

ルムンバ首相は国連の消極策に失望し、ソ連に近づき、武器や物流支援を取り付ける。アメリカのアイゼンハワー大統領はコンゴソ連に近づくことを快く思わない。

1960年8月:カタンガ州の北側に位置する南カサイ国も分離独立を宣言。

1960年8月:ソ連軍の軍事支援をうけ、ルムンバ首相主導で、南カサイに進軍。民間人の大量虐殺。

1960年9月:カサブブ大統領が、南カサイ大量虐殺を理由にルムンバ首相を更迭。

1960年9月:陸軍のモブツがクーデターを起こし、実権を握る。ルムンバ首相拘束。モブツはこれを契機にアメリカとの関係深化。

1960年11月:ルムンバが軟禁から脱出

1960年12月:ルムンバ再び拘束。

1960年12月:ルムンバ派が反乱軍政府樹立。(ギゼンガ政府)

1961年1月:ルムンバ元首相が処刑される。(劇中の描写はないが、一度埋められた遺体を硫酸で溶かしたらしい)

(1961年1月:アメリカ大統領にケネディ就任)

1961年2月:モブツにより、カサブブが大統領に再任命。

1961年2月:チョンベは立場の強化のために、外国人傭兵を輸入。国連平和維持軍と傭兵隊との緊張が高まる。

1961年6月:チョンベ、一時逮捕、拘留。

1961年7月:国連軍が約20,000名に増員

1961年8月:国連軍のランパンチ作戦により、カタンガ憲兵隊の武装解除、外国人傭兵の逮捕/追放

1961年9月:国連軍は、武力行使せずにカタンガの傭兵舞台を拘留するためのモーソー作戦により、カタンガ国政府幹部逮捕を目指す。「ジャドヴィル包囲戦」

1961年9月:コンゴ動乱の停戦調停に赴いていた国連事務総長ハマーショルド、飛行機事故で死去。

1961年11月:国連事務総長ウ・タント就任。米ソの了解を取り付け、コンゴ動乱に積極的に介入へ。(国連安保理決議169号:カタンガ国を認めず、コンゴ中央政府を強力に支援)

1961年12月:国連による調停も、事務総長ウ・タント経済制裁を課したことで、チョンベが交渉から撤退。

1961年12月:南カサイ国消滅。

1962年1月:ギゼンガ逮捕により、ギゼンガ政府崩壊

 

1962年12月:チョンベ大統領が、キトナ協定に署名。カタンガの分離独立放棄へ。が、挑発行為は続ける。逆に、カタンガの最大の支援国であるベルギーですら支援をためらう様に。

1962年12月:コンゴ国連軍がカタンガを占領。停戦合意。チョンベは北ローデシアに逃れる。

1963年1月:コンゴ国連軍が、チョンベ派の最後の地点を占領。カタンガ国の事実上の消滅。

1964年1月:東部のクウィル州で反乱。中央から東部地域に飛び火し、より大規模なシンバの反乱となる。

1964年7月:USとベルギーの承諾を受け、コンゴに傭兵部隊創設。通称ワイルドギースなども含まれる。(映画『ワイルド・ギース』1978英の元ネタ)

1964年8月:新憲法制定。コンゴ共和国からコンゴ民主共和国へ。カサブブ大統領がチョンベを暫定首相に任命。

1964年11月:ドラゴン・ルージュ作戦。ベルギーのパラシュート部隊がシンバ反乱軍から1800人以上の人質を奪還する作戦に成功。東部の暴動はひと段落。

1965年11月:モブツが再びクーデター。カサブブ更迭、モブツが国家元首就任。反対派を弾圧、鎮圧。コンゴ動乱終結

後に、モブツは国名をザイール変えて独裁を続ける。なお、「キンシャサの奇跡」は、1974年に行われたザイールの首都キンシャサで行われたボクシングの世界統一ヘビー級タイトルマッチ。落ち目の挑戦者モハメドアリ(当時42歳)と24連続KO勝ちで25歳のチャンピオン、ジョージフォアマンと戦い、劇的な逆転KOでアリが戴冠する試合のことだ。


1974 10 30 キンシャサの奇跡 モハメド・アリ vs ジョージ・フォアマン

2005年:ジャドヴィル包囲戦に参加したアイルランド部隊の名誉回復。