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見たものと、読んだもの

原作:マツキタツヤ、漫画:宇佐崎しろ『アクタージュ act-age』

人が人になるとはどういうことか。

孤独な人間が仲間を得るとはどういうことか。

アクタージュ act-age 11 (ジャンプコミックス)

アクタージュ act-age 11 (ジャンプコミックス)

 

少年漫画の主役には、面白い人が面白いことをただ行って笑わせるもの、凡人が努力の末に何がしかの高みに達するもの、何かが欠落している天才がその欠落を見出すもの*1 の三種類があると思う。これは3番目のお話。

11巻の立ち位置

生まれながらメソッド演技を独学で身につけてしまっていた主人公、夜凪景。

彼女が、役になり切るメソッド演技から、それを俯瞰して自分を操縦する演技ができるように、少しずつなっていく姿が描かれていく。

週刊ジャンプの連載なので、基本的にダレ場がなく、前回の問題の解決、往々にして解決策から導かれる副作用による問題発生で引き、次回はその問題の解決、と言うループで描かれていくので、テンポが良い。テンポを壊さないためにもキャラクターたちは自分の欲望にストレートに動く。これが青年誌などだと悩みが始まるところだが、そう言うのがないのが良い。

8巻から始まる『羅刹女』編の一つのクライマックスがこの11巻。

その怒りは誰のものか。演者か、役か?

個人的には、その怒りは誰のものか、と言う思いで読んでいる。

例えば、本当に怒り狂っている人が、その怒りを舞台の上で爆発させるとどうなるか。それは演者の私的な怒りであり、制御不能なものだ。アドリブで全部突き進めるならそれもありかもしれないが、開演と終演の時間があり、脚本があり、共演者がいる以上は、それは許されるものではない。

でもそこで「怒ったぞー(棒)」と言う演技をされても、リアリティがなさすぎて興醒めである。リアルに怒っているのと、リアリティのある怒りは別のものだ。

メソッド演技では、体験をもとに自分がその役の人間になり切ってその怒りなら怒りを表現する。しかし、内面で怒っていることと、外面で人に見せる怒りは、果たしてどの程度一緒のものなのか。逆に、個人としてのその人と、演じている役としてのその人と言うものの、感情の境界はどこにあるのか?

夜凪は戻って来れるのか?

よくいう役の中に入り込みすぎて「戻ってくる、こない」話だ。

実は連載1回目でいきなりそのレベルから話が始まる。夜凪景がオーディションで悲しい演技をする時、彼女は最初は深い悲しみに埋没している状態を作った。ほとんどの人にはわからなかったが、彼女を見出すことになる黒山墨字は一発でそれを見抜く。他の審査員が「やる気があるのか」と罵声を浴びせたところで、「バカにでもわかるようにやれ」と言う指示を与え、夜凪は目から涙を零す、そう言うシーンから始まるのだ。

そのあとは、そう言うシーンだとこの役の人はどう言う行動に出るかだとか、でもそれはあなたではなくこの役の人だから、あなたとしては正しい行動かもしれないが、その役の人として正しい行動だったのかとか、言葉にすると小難しく聞こえるかもしれない、そう言う繊細なシーンを積み上げていく。

この『羅刹女』の演技でも、彼女は、羅刹女としての怒りと、夜凪本人としての怒りの間を揺れ動く。その薄氷の上のバランスの取り具合と、その描写が素晴らしい。

そしてそれを暴走手前に押し留めるために、周りの人がどう動いていくのかというのも、丁寧な描写で素晴らしい。こういうの、サブキャラクターが入り過ぎればボケるし、入らなさすぎると立体感が不足するので、個人的に好きな塩梅。

「独学でメソッド演技を身につけた」の嘘本当。リアルとリアリティとこれから

このマンガの、ちょっと目を逸らしておかないといけないところは、そもそもの前提である「独学でメソッド演技を身に付けた」という説明だと思う。

独学で、自分が経験した感情を必要に応じて自分で完全再現できる、ということと、そのように他人に見せるというのは、違うことだからだ。コンピュータ的にいうと、かつての感情を今の自分の感情としてロードできることと、ロードされた感情を側から見てそう見えるように出力することは違う。前者は、過去から未来への時間軸で、ロード先は自分の中という見えない部分。後者はロードされた感情を、そうあるように身振り手振り声色などを用いて他人にそう見えるように動くこと。

例えば好きな相手にふられた時、ちょっと傷つくけどすぐ忘れる人もいれば、自殺してしまう人まで、受け取りの重たさは異なるし、行動も、泣く人、笑う人、怒る人、黙る人、盗んだバイクで走り出す人、いろいろいるはずで、唯一絶対の正解はない。演技としてはそれがリアリティを持つかどうかが問題で、リアルかどうかはまた別の話。

夜凪は、自宅にあった数々の名画を視聴することでメソッド演技を身につけたことになっている。とすれば、映画での演技を見ることで、表現方法をトレースできるようになるのと同時に、映画の演技で自分の中にある感情とリンクさせることができるようになり、しかもその二つを自分の体験と外部への表現方法というカードとして保存でき、いつでもそれを再現できるようになった、ということなのだろうか。

だとすると、外からどう見えるかだけに注力する百城千世子的になりそうなものなのに。墨山が、普通の役者、夜凪、百城と明神の、役中人物への感情ダイブと、表現についての模式図を4巻で示している。

そうなっていないとすれば、先の仮説は間違っている。映画の演技を見ることで、その役柄の感情を再体験し、それを自分の中にある体験と結びつけ、さらに役者の感情を高精細に把握するという、内向きのベクトルということだろう。んー、しかしだとすると、表現をしないわけだから「メソッド演技を独学でものにしている」という表現が適切ではないのではなかろうか。あくまで役の掘り下げ能力をものにしているだけであって。

夜凪の今後が楽しみ

とはいえ、この矛盾は、この作品の駆動力になっている。

今はあて書きにすぎない物を、よりうまく演じるという方向で、夜凪を役者として育てようとしている。そしてこの作品世界では、超一流の役者の地位を占めようとしている。

しかし今後は、夜凪であれば取らない考え方を、キャラクターが行う脚本や演出に対して、夜凪が演じるようになる(例えば、1巻の町娘のようなことをせず)のか、それとも王賀美のようにあくまでも自分のあてがきの演技だけで世界を制する方向に行くのか。その辺りが楽しみだ。あるいは、活かされる役者として、監督や共演者に助けられてきたが、座長として彼女は助ける側に回れるのか、とか。

今までは、無名の女子高校生が階段を駆け上がるところだが、今度は幅を広げる方向に行くとしたら、今の展開の爽快さを捨てざるを得ないかもしれず、ただそうやると少年漫画より青年漫画になってしまうかも知れずとなると、持ち味を殺してしまうことにもなりかねず。この方向に行くと、かわぐちかいじ『アクター』になってしまう。

 このドロドロしながら進んでいく物語も面白いんだけど、『アクタージュ』の路線じゃないかなあ。

ウダウダ言ってきたものの、明確な目標が提示されて、それを努力と友情で勝ち取るというサイクルでできているのが、そして夜凪が成長している姿を見ることができる、これがなんと言っても楽しい作品だ。

 

*1:鋼の錬金術師』カテゴリ