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見たものと、読んだもの

ヤマシタトモコ『違国日記』(1-6 以下続)

最近の本購入の導線は、kindle unlimited で1-2巻くらい読んで、残りをそのまま購入というパターン。ぶらりと本屋で1巻だけ買ってみて、というのがやりにくい現在、割と機能する。もちろん、後半部分が好みと合わないこともあるが、unlimited範囲で判断できなかった自分が悪いので、しょうがない。

 

違国日記(1) (FEEL COMICS swing)

違国日記(1) (FEEL COMICS swing)

 

 

今回は、『違国日記』ちなみに「いこくにっき」と読む。作者のヤマシタトモコは、月刊アフタヌーンで知っていた。多分最初は『BUTTER!!!』そして『花井沢町公民館便り』。後者は割と印象に残っている。

お試しに。

www.moae.jp

ヤマシタトモコのいいところは、大前提がかなり大きな嘘であっても、キャラクターたちは地に足をつけて生きていること。花井沢町の女の子が「『勇気』なんてあげてないのに、勝手にもらわないでほしい」というところなんて、自分が本当にそこに住んでいたら絶対ああいうのうざいよねというのと、好きなアイドルグループに近くで会えた高揚感は醒めていないよねというバランスが、キャラクターが生きてるって感じで素晴らしい。

そう、ヤマシタトモコは、上っ面の言葉を許さない作家なのだと思う。

上っ面の言葉を許さないことは、上っ面の会話を許さないことだ。会話の内容はどうでも良くて、会話をしていることだけに意味があると思っている人も多い中で、きちんと言葉に意味をつけ、相手からもそれだけの意味のある言葉を求めようとすると、それは「めんどくさい人」と言われ、疎まれることになる。

そして本作の主人公の一人は、それを自覚している少女小説家、高代槇生(コウダイマキオ)だ。姉の娘である田汲朝(タクミアサ)が交通事故で両親を亡くし、彼女が引き取るところから、話が動き出す。

槇生は、心の中に踏み込まれたくないし、それゆえ自分からも踏み込めない。踏み込みたくないのと、踏み込んだ方が良さそうな時は踏み込みかたがわからなくて戸惑う。

自分がどう感じるかは自分のものなので、そこを「普通」こうでしょと土足で踏み込まれることを極度に嫌う。踏み込まれると、呼吸ができないのだと思う。

人の中にいる時の方が、孤独を感じる、と思ったことがあるひとは、一度読むといいと思う。あの時の自分を、言語化できたりできなかったりして、悶えながらも、キャラクターたちにがんばれと言いたくなるかもしれない。

孤独なこと自体は悪いことではない。朝の言葉を借りれば、人はみな砂漠の中にいる。群れをなすのが快適な人もいるし、一人が快適な人もいる。群れが好きな人でも、たまにひとりになりたい時はあるし、一人が快適でも人肌が恋しくなる日もある。いい、わるい、という話ではない。

ただ、孤独を楽しいと感じているときに、外から過剰な干渉を受けると辛いし、孤独を寂しいと感じているときに、外に誰も話しかけていい人がいないのも辛い。側から見たら矛盾した物を、うまく妥協しながら生きていくしかない。

マキオは、自覚しながらコントロールできないし、アサは自覚しかけているがまだ言語化できていない。二人とも好ましい人間なのだが、コミュニケーションがうまくいかない。

マキオの悩みは、親が親に育っていく過程に近いのだが、子供が15歳からとなると親というよりも歳の離れた友達に近く、普通はそれを経験することもないし、と前途多難である。しかし、マキオの強さは、それをステレオタイプのものとしてなんとか上っ面で流していくことをせず、ある意味いつもと同じように、自分にとっての距離感の取り方を探っていくという、めんどくさい作業を誠実にこなしていこうとする。

最終的に、お互いが親友になれるといいな、と思いつつ、それこそ親戚の子の成長を見る感じで、このキャラクターたちの横で応援をしていきたい気分だ。