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見たものと、読んだもの

庵野秀明総監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』2021

いろんな考察はこれから出てくるんだろうけど、きちんと卒業できてよかったね、庵野さん、と言うお話。


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改2【公式】

退学からの、復学、卒業

テレビ版(1995−1996)から数えて約25年の卒業かな、と言う感じ。この作品世界というよりも、庵野総監督の私小説のような感じがある。

テレビ版から旧劇が、「てめーらオタクらは現実に帰れやキモイんじゃボケ」という自分を含むオタクを壊すというか、ほとんど自死を呼び込むような絶叫をこめた中退宣言ならば、新劇場版が復学宣言。そして、この『シン』で、「自分のその言葉がブーメランとなって帰ってきて、自分が壊れた。治す過程で、自分がいかに人に愛されているかを理解し、現実に戻ることができた。ありがとう、そしてさようなら」と言っているような卒業。

これをエヴァでやらないといけなかったのかというと、物語的には必要ではなかったと思うのだが、庵野が盛大に壊れたのはエヴァが大きな原因なのだから、ここに戻って回収するのが、きれいな終わりというものだろう。

演出の巧みさ

冷静になってみれば、説明的なセリフも結構多いのだが、その話し方の感情の込めかたなどで、その時のキャラクターの描写になっているシーンが多い。説明台詞は基本嫌いなんだけど、そんなに嫌だと思わなかったのは、ここら辺の匠の技がある。

それってなんて説明すればいいんだと思っていたのだが、某SF作家がこんなことを言っているのを思い出して得心した。

草野 ハードSFの致命的な弱点は、SFファン以外には面白くないということです。メインが科学的な説明で、いろいろな物語がありますが、最後には科学的な説明にパスする。でも、それがSFファン以外にはカタルシスがほとんどない。長々とした説明を読まされても何が面白いのか、というのが正直なところではないでしょうか。だから、ハードSFはSFファン以外には広がらないという悲しい現実があります。しかしこれをハード百合SFにすると、科学的な説明の場面が、女性同士が会話している場面になります。これはすなわち、みなさんの好きな百合描写です。

宮澤 すごく感心しました。確かにそうなんです。ハードSFの説明部分はどうしても長い会話になるじゃないですか。そこに関係性を入れ込むというのはまったくなかった発想で、うまく成り立つように思えます。

百合が俺を人間にしてくれた【2】――対談◆宮澤伊織×草野原々|Hayakawa Books & Magazines(β)

別にSFでなくても、百合でなくてもいいのだけれど、これを独り言も含めて誰と話しているのかをかぶせ、関係性をつむぐことと兼用すると、そんなに諄くならないという話。

別で言うと、少年ジャンプがやっている「ジャンプの漫画学校」で松井がいう「兼ねる」と言うやつ。

jump-manga-school.hatenablog.com

話の筋的には、かなり強引な部分もあるんだけど、ここら辺の細かい演出の積み上げが、こういう映画に着地する。それが素晴らしい。

あとは、ネタバレ全開で。

 

 

ゲンドウ = ほむら説

ゲンドウがユイに会いたいがためだけに全地球を巻き込んでこの補完計画を行っていて、多くが失敗に終わりつつも、何度も正解に向かってブルータルアタックを続けている、ように見える。この考えはタイムループものの定番だ。TV版は最後強引にシンジにおめでとうエンドを見せたが、旧劇の終わりに息子と親子ゲンカをして勝ち逃げをし、今回はきちんとケンカして負ける。ゲンドウにとっての、メリーバッドエンド。同じループものとして、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)のほむらちゃんがゲンドウで、まどかがシンジです。エヴァはシンジを狂言回しにシンジを選択しているので、ゲンドウ=ほむらの重い願いとゴールはあまり語られなくてわかりづらい。しかしここは旧劇でもシンでも明確に、ユイの復活とユイとの幸せをいう。ほむらだとまどかを救うと言うこと。救ったらどうなるじゃなく、救うそのものが約束。これが旧約。それを超えて全世界を書き換える新約が必要。『まどか☆マギカ』は、全ての魔法少女を存在しなくても良い世界にするが新約で、これはほむらではなくまどかの願い。エヴァも、ゲンドウの願いをスケールを大きくして上書きするシンジ。そのシンジの願いが、新約で、新世紀、と。

かわいくないほむらだな。 まあ、ほむらも一途と見るか、ストーカーと見るかで、好き嫌いがかなり別れるキャラだしねぇ。

シンジくん、実は強い説

自分の投げた言葉に壊れた庵野の直接の投影が、ニヤサーという人類をおそらく数億殺してしまった罪の重さに耐えかねているシンジなのだろうけど、シンジって不貞腐れるけどそんなに自己肯定感低くないんだよね。受け止めきれなくて折れると無気力になって、殻に閉じこもるだけで。器が修復できれば、普通に元に戻れる。ぱっと見よりも、強いというか、修復力がある感じ。

自己肯定感が低くて折れる人の場合、多くは、無理して「手伝わせてください」とか言って、自己有用性を証明する方向にいく、言うなれば骨折しているのに無理に歩いてさらに悪化させる感じのループになる。だから、動きたがる人にどうにかして休ませることが大事になる。シンジは、無気力中は、誰になんと罵倒されても、無気力状態をやめる事はない。なぜあんなことをしてしまったのかと落ち込むし、人からの接触は拒むけど、それとこれとは別なのだろう。

この無気力は必要。で、これはオタク世界から現実世界に両足を突っ込んでしまって、どうしていいかわからない状態を観察しつつ立ち上がるまでに時間がいるということ。綾波そっくりさんのように、生まれ直して、こちらの世界の文法や常識を身につけるのに必要な時間だったのではないか。多分、トウジやケンケンのように、粘り強く、でも圧は低くそばにいてくれる人がたくさんいたんだろうなあ、と言う、なぜか庵野に対する親目線。

だから、普通は第三村の描写って、鬱サバイバー的な描写になりそうなのだが、 そうなっていないのではないかなと。

アスカ、アスカ、アスカ

覚醒シンジくんが降臨するまでは、失敗したときの悲劇を、観客に明示するために押し付けられるのがアスカという役回りである。過酷だ。自己肯定感が高いようで実は卑屈なくらい低く、虚栄心が高い。他者からの賛辞がなければここにいていいのかどうかということすらわからなくなる。そのため、無茶をしながらここにいてもいい位置を探し、進む。それは、薬物中毒のようなもので、ちょっとの無茶=ちょっとの賞賛が、徐々にすごい無茶=すごい賞賛というように、無茶と引き換えにする自己有用性のハードルが上がり続ける。最終的に、致死量を上回るハードルを越えるしかなくなる。

プログラムされ、第三の少年に好意を持つことを仕組まれたと知り、どうしていいのかわからなくなる。レイ(そっくりさん)は、仮に仕組まれたとしてもそんなことは関係ないと素直に自分の心の中の感情を信じるのだが、アスカはそれさえもできない。

そんなアスカが、きちんとシンジを卒業して、永遠の14歳の呪縛が解かれて(プラグスーツが破れるのって、体が14歳じゃなくなったことの比喩だよね?)、おそらくはケンケンと幸せになる未来が示唆されているので、満足です。

あなたがどんなに自己効力感がなくて居場所がなくて自己評価が低くても、私はそばにいると言う存在。その存在に気がつくまでに時間はかかるし、私の側にいることで得られる価値もないのになぜいるのか気持ち悪い。私を受け入れるような程度の低い人に、私は好かれたくない。と言うどのルートをとっても文字通りのデッドエンドに行く思考回路を壊すには、時間が必要なのだ。シンジのいない14年を、そこに使っていたのかもしれない。

しかし、今好きな人がいる中で、かつて片想いだった人に過去形で愛を呟くことが、その人にとってどういう区切りになるのかね。しかも、両片思いだったこともわかるのだし。これは人によるとしか言いようがないんだろうけど。

綾波レイと委員長の不思議な関係

綾波レイは、自分はシンジくんがクラスメイトとして認識していた綾波レイではないという自覚のもと、綾波レイと呼ばれることを拒む。そっくりさんという呼び名になる。一般常識を持たないレイが、言葉を学ぶのは、委員長だったヒカリからだった。

ヒカリがレイを受け入れる様が、正直よくわからなかった。トウジとケンスケがシンジを掘っておいてやろうというのは、よくわかるのだが。エヴァはミサトやリツコのように女性の上級職が普通にいる世界観ではあるのだが、昭和な感じのジェンダー世界観がここ第三村で繰り広げられるのが、統一性を欠くような感じで不思議なのだ。第三村がなんとなくジブリとなりのトトロ』を彷彿とさせるような昭和時代の農村風景だからそれに引きずられているのかな。レイと一緒に農作業をするおばちゃんたちは、トトロに出てきそうな肝っ玉母ちゃん群な感じだったが。

ここは物語世界ではなく、庵野私小説部分と理解した方がいいのかねぇ。だとすると庵野監督の年齢からすると、ああいう世界観は理解できる(あんまりそういうメタな解釈はしたくないのだが)

宇宙戦艦ヤマト

「ヤマト作戦」は明らかに宇宙戦艦ヤマトなんだろうなあと思っていたら、世界のために自身を犠牲にして特攻するところが、やはりそうだった。加持が『破』と『Q』の間で特攻してサードインパクトを「ニア」で止め、今度はミサトが止める。『さらば宇宙戦艦ヤマト』(1978)っぽい話だ。でもヤシマ作戦の機序はよくわかるんだけど、ヤマト作戦の機序は正直全くわからなかった。ここら辺は詳しい人がきっと考察してくれるだろうから、それを待つとしよう。

描かれなかったことたち

加持さんの本当の上司が渚カヲルだったのかなあ、だとすればどういう組織だったのかとか。

これ、ループの物語だとしたら、ループのコントロールしているのは誰なのかなとか。個人的には碇ゲンドウ渚カヲルだけがループの記憶を引き継いで何度も何度もこの悲劇を繰り返しているような気がするんだけど。(ゲンドウが表、裏にカヲル? だとしたら同じ繰り返しのなかで記憶を引き継げる人物が2名同時というのはどういう理路?)

冬月さんの動機はなんだったのかとか。

どこら辺にマリがシンジを好きになる要素があったのだろうか、とか。

まあ、「SFは絵」なので、アヴァンのパリ攻防戦のように見た目はいいけど話の筋に必要だったのだろうかというのがある一方で、上記のように語られていないものがたくさんあるという、偏りがあるのがエヴァなので、そこはその隙を二次創作でも妄想でも楽しめばいい余地があるということなのだろう。

一旦終わり。そして題名最後にある反復記号。

知的財産としてのエヴァの強さはあるので、これからも外伝的なものなどで続いていくのかもしれない。逆に、きれいに終わったように見せておいて、次につなぐのかね?