大泉サロンの話を、恥ずかしながら全く知らずに読んだ。
読んだ順は、発行順と異なり、『一度きりの大泉の話』>『少年の名はジルベール』の順。
この本を読むまでは、大泉サロンという言葉も知らなかったし、二人が同居(二人だけではないが)していたことを知らなかった。
『一度きりの大泉の話』の最初の方で、なんでこんなに予防線を張っているのかと思ったが、読了すると、確かにこれは永久凍土から解凍されたものなので、本当はもっと張りたいというか、あまりにも聞かれるので開陳するが、一生閉じ込めておきたい辛い体験だったのだな、と思う。
もちろん人によっては、そんな昔のことをクヨクヨとまだ拘っているのかと非難する向きもあると思う。しかしそれは、自分にしかわからない傷の痛み、というものに対して、軽はずみすぎるように思う。
内向的だからこそ、『残酷な神が支配する』のような、『イグアナの娘』『半神』のような繊細な物語が生まれてきたのだと思う。その源泉である感受性は、萩尾望都そのものだ。
竹宮惠子は、『少年の名はジルベール』を萩尾望都への復縁のメッセージとして書いたのかどうかはわからない。ただ、雪解けと見られてしまったことが、萩尾望都に対する多くの連絡を呼び、まだ瘡蓋にもなっていない傷口をほじくり返すことになり、新たな軋轢をうむことになったのは、悲しいことだ。
行き違いと言うのは、悲しい。
『一度きりの大泉の話』によって、二人の人生が2度と交わらないことが確定しまった。これも悲しい。
しかし、無理矢理交わらせようとするよりも、過去の話として供養し、永久凍土に埋め戻すことが、一番いいことなのだと納得させられるような話だった。