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見たものと、読んだもの

おかざき真里『かしましめし』4巻

どうしても一時的な再集合に過ぎないシェアハウスというか居候生活が、終わろうとしているのかな。

癌の受容段階として、「1.否認⇒2.怒り⇒3.取引⇒4.抑うつ⇒5.受容」というのが知られている。例えば、

  1. いや『癌』なわけないでしょ
  2. 私が『癌』になるのはおかしい。あり得ない
  3. ねえ、なんとかして『癌』でないことにならないかな。神様助けて!
  4. ああ、やっぱり『癌』なのか、どうしようもないのか、いやだ止めて
  5. 『癌』なのはしょうがないな

という順序になる、というのが一般的らしい。

私も近親者を癌で亡くしているのだが、割と「2. 怒り」の「『癌』とは言われているが、大袈裟に言っているだけで、私が『癌』なわけはない」というところで止まっていたような気がする。前向きに戦うための前段階に過ぎないはずの「5.受容」までが、実際には凄まじく遠いのではないか、というのが、個人的感覚だ。

癌の場合は、体調が崩れ、薬の副作用が起きてきてしまうので、いやでも死と向き合う事になる。これが死に直結するものでなかったら?

やはりそれは「1.否認」「2. 怒り」までで止まることの方が多いのではないか、特にメンタルの場合は。 

『かしましめし』の主人公の3人は、まだそういう状況なのだと思う。

そして、そういう精神状況の中で、「逃げ場所」として今一緒に住んでいる場所と友達(というか同士?)がいることが、とても素晴らしいと思う。

 

これを『逃げるは恥だが役に立つ』と言ってしまうと、逃げるというカードを戦術レベルで使いこなす、というように思えるのと、同名マンガ/ドラマのせいでちょっとコミカルに感じるところもあってしまうのだが、ちょっと私の捉え方は違う。

逃げるは恥だが役に立つ』は、全然逃げていない話だ。

「ちょっと忖度してよ」という意識的/無意識的な「常識」に対して、「それ忖度する意味ないですよね、単純に私がやりがい搾取されているだけじゃないですか!」という異議申し立てで突破していく話。その決断をするまでに多少の紆余曲折はあるものの、結局心のままに突き進んでいく。そしてそれが叶えられるというファンタジー

『かしましめし』は、社会的にも自分的にも根深いところで挫折していて、そこからどう立ち直ろうかというモラトリアムの話だと思っている。このお話の、特に主人公たちは、根っこのところで折り合いがついていない。社会と、というよりも、真に繋がっていたい人や会社と、というべきか。だから、それを否定することは自分が自分でなくなることなのだけど、それを突き進んでいく自信すら失っている。なので、料理などの話でコミカルな上っ面を晒して生きているが、本当に重いところは、傷を舐め合う存在になりたくない親友の前に見せられない(と思い込んでいる)

また、見せたくない気持ちがわかっているから、昭和の肝っ玉お母ちゃんのように踏み込んでいったりしない。山嵐のジレンマのように、お互いの体温だけを生きる縁にしている程すらある。

それは、問題と戦っていないという意味で、逃げだ。

でもそれは、とても大切なことだ。

骨折した脚で全力疾走しようとしても意味がない。全力疾走するために、回復に時間を使うことが大事なのだ。

しかし、まだ自分を責めたりして、「一生懸命、回復に時間を使うぞ」とはなっていない。そういう段階に、ゆっくりとでいいので進んでいってほしいな、と思って読んでいる。