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見たものと、読んだもの

玄奘三蔵のインド紀行ルート

 

『天竺熱風録』を読んでいて、この頃の世界図って頭に入っていないなと思ったので調べてみた。7世紀中盤の中央アジアから東アジアの図版です。

中国/唐

唐は、西暦618年から907年の間、中国を治めていた王朝である。遣唐使の「唐」ですね。都は長安(現在の西安)。隋を滅ぼし(正確には禅譲を受けて)唐を建国したのが李淵(廟号は高祖。在位618年から626年)。二代目が太宗皇帝(在位626年から649年)。

版図は、北が万里の長城、東は海、南はベトナム、西は四川省くらい?

やはり万里の長城がないと、北方民族との領土紛争が大変だったのだなと言うのがわかります。そりゃ、北京だと北すぎて首都にはできないですわ。

『天竺熱風録』の時代は、太宗の治世で元号貞観。「貞観の治」として善政の見本とされ、書物に『貞観政要』としてまとめられる。「創業と守成、いずれが難きか」は有名。前半は国力の回復に努め、その後、北の突厥、西のインド方面に進出していった。

ちなみに、その後は;

690年 - 705年は、則天武后に国を乗っ取られ、周となる。

712年に、第六代玄宗即位。前半は「開元の治」と呼ばれ、唐が最盛期を迎える。

745年に、楊貴妃が貴妃になってからは、治世が緩む。

755年に、安史の乱。短期的には玄宗退位、長期的には唐の衰退が始まる。

803年に、空海が唐を訪れたときの皇帝は十二代である徳宗(805年退位)。

894年に、菅原道真により、遣唐使中止。 

907年に、滅亡し、五代十国時代へ。

中央アジア/突厥⇨唐の実効支配

6世紀にあった唐の北と西にある遊牧民族の国。最大版図は、東が渤海(東ロシア付近)、西がアラル海中央アジアの、カザフスタンウズベキスタンタジキスタン)、南はゴビ砂漠崑崙山脈万里の長城新疆ウイグル自治区)、北はバイカル湖(モンゴル)という巨大帝国。

581年に中国が300年ぶりの統一国家(隋)になっても南下して小競り合いを続ける。

582年に東西に分裂。

突厥は、

630年に、天変地異や内紛により弱まり、唐に降伏。羈縻政策による、まあ、属国扱いになる。

650年には北方民族はすべて唐の支配下になった。(745年に滅亡)

西突厥は、

620年代くらいが最盛期で、西はササン朝ペルシア、南は現カシミール地方である罽賓(けいひん)まで勢力を伸ばした。しかし、二人の可汗が並立するなど、徐々に内紛が起こる。対外戦争をしている場合ではないので、唐に朝貢する。なんとか独立を保っていたが、657年には東突厥と同じく唐の羈縻政策下に入る。(741年に滅亡)

北インド / ヴァルダナ朝

6世紀中頃にグプタ朝が滅亡して、大分裂時代に突入していた北インド。武人であるハルシャ・ヴァルダナは606年に即位し、ヴァルダナ朝を建国。北インドの大部分を統一。残念ながら一代限り。 

ここでいう北インドは、北はヒマラヤ (Himalayas) 山脈、南はヴィンディア (Vindhyas) 山脈で挟まれた地方。といってもハルシャが治める東西は海まで(東はバングラディシュ、西はパキスタンあたりまで)という、大帝国だ。

首都はガンジス川沿岸にあるカーニャクブジャ(=腰が曲がった女)/カナウジ(曲女城/Kannauj)。曲女城は、玄奘三蔵による意訳。12世紀にイスラム勢が破壊するまでは、ずっと栄えていた。

言語はサンスクリット語。中国からの呼び名は梵語。なので玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典は梵字

ヴァルダナ朝が滅んでから13世紀初めまでは、ラージプート時代という群雄割拠の時代となる。8世紀には、北西インドに強くカナウジを首都とするプラティーハーラ朝と、東のベンガル地方に勢力を持つパーラ朝と、中央インドデカン高原に勢力を持つラシュトラクータ朝が、カナウジを巡って争っていた。カナウジが、いかに重要な都市だったかわかる。

 

Indiahills.png
Nichalp - 投稿者自身による作品CC 表示-継承 3.0, リンクによる

チベット吐蕃

618年建国。7世紀初めにチベット高原統一を成したソンツェン・ガンポ王(630年即位。650年死去)の時代。首都はラサ。

版図は、大体、チベット自治区青海省。もしかしたら四川省雲南省の一部?

King Songsten Gampo's statue in his meditation cave at Yerpa.jpg
オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアJohn Hillさん - en.wikipediaからコモンズに移動されました。, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 

唐とは礼物を送りあったり、領土の帰属権を争って戦争したりと、対等な小競り合いを続ける関係。

『天竺熱風録』よりも1世紀ほど後の763年には半年ほど長安を占領するなど、私が思っていたよりもかなりの強国。

842年滅亡。

ネパール/リッチャヴィ朝

4世紀から9世紀にあったネパールの古代王朝。版図は大体今のネパールと同じ。

ナレーンドラ・デーヴァの治世(在位643-679年)。チベットに追放された後、ソンツェン・ガンポ王の援軍を得てネパールに戻り、王位についた。となると、当然、親吐蕃。逆に北インドに対しては脅威となる。チベット吐蕃のソンツェン・ガンポ王が亡くなってからは独立が保たれていたが、基本的にはチベットの属国扱いを、少なくとも唐からはされていた。ナレーンドラの死後は求心力を保てず、チベットの属国化が進む。

唐とインドの交流

玄奘三蔵(『西遊記』の三蔵法師)がヴァルダナ朝を訪れたのが貞観3年から19年(西暦629-645年)。彼はインド周辺の見聞録として、646年に全12巻の『大唐西域記』を著す。

また、ハルシャ王が641年に太宗皇帝に使節を派遣。返礼としてこの物語の主人公である王玄策が派遣される。

玄奘三蔵(『西遊記』の三蔵法師)がヴァルダナ朝を訪れたのが貞観3年から19年(西暦629-645年)で、この物語でも玄奘三蔵の弟子が重要人物として出てくる。

 

玄奘三蔵とその経典、それから空海

シルクロード

シルクロード自体は紀元前からある。地理的な言い方をすると、中国からゴビ砂漠タクラマカン砂漠をへて、パミール高原を抜けて、中央アジアに至る。

中央アジアから中国への道は大きく分けて3本。

西域南道

最初にできたとされる西域南道は、ゴビ砂漠敦煌からタクラマカン砂漠の南の縁、崑崙山脈の北の縁を、オアシス伝いにいく。いまだに場所が分かっていない桜蘭を経由する。

天山南路

次にできたとされる天山南路(西域北道)は、タクラマカン砂漠の北のふち、天山山脈の南の縁をいく。

西域南道も天山南路も、灼熱のタクラマカン砂漠を越えた後に、平均標高5,000のパミール高原を越えるという、歩くのも困難なら補給も困難なルートを通って、中央アジアウズベキスタンの古都サマルカンドに到達し、そこからヨーロッパへ西進する。インドへは、おそらく現在のタジキスタン/パミール高原の手前で、クシュクルガンから現在のカラコルム・ハイウェーで現イスラマバード(当時はサイドプル?)まで南下。そこからカシミールパンジャブ地方を越えて、首都カナウジ(曲女城)

天山北路

最後に開発されたのが、天山北路。敦煌からトルファンに行くまでは天山南路と同じだが、そこからウルムチをへて天山山脈の北に出て、当時の西突厥の首都スイアブ(現在はキルギスの都市トクマクの郊外)、現在のウズベキスタンの首都タシケントをへてサマルカンドに向かう。インドへは、そこからテルメス、現パキスタンの交通の要所カイバル峠を経て、現イスラマバード。迂回するので距離は長いが、タクラマカン砂漠パミール高原も通らない、一番楽な道。

この物語時点の行政区分的には、中国からヨーロッパは、唐>東突厥(ハミや敦煌)>西突厥(東はトルファン西はサマルカンドくらい)>ササン朝ペルシア(650年滅亡)>東ローマ帝国、みたいな感じかしらん。遊牧民族の国の境は厳密にはわからんけれど。

玄奘三蔵のルート

どうやら玄奘三蔵は、行きは天山南路と見せかけて、ベテル峠を越えて天山北路に入り、北インドの西端から今度は北インドの東端に近いナーランダ大学で勉強するというルート。(Wikipediaにはヒンドゥークシュ山脈を越えたとある。サマルカンドから東南に動いて現アフガニスタンの首都カブール(ここはヒンドゥーシュク山脈の盆地)から、カイバル峠を越えてインドだと考える)

帰りは、なぜか最も過酷な西安南道を通る。桜蘭が見たかったのかもしれない。

よくもまあ無事に帰って来れたことよ。

玄奘三蔵訳の経典が、空海につながる

629年;玄奘三蔵、隋を密出国してインド入り。

インド仏教の最高峰の大学ナーランダ大学にて学長のシーラバドラ/戒賢から唯識を学ぶ。

645年:玄奘三蔵、最短だが最も過酷なシルクロード西域南道コースで、唐に戻る。持ち帰ったのはサンスクリットで書かれた経典657巻。国政に入らぬ代わりにインドの情勢を記述したのは『大唐西域記』。

ここから生涯をこの経典の漢訳にあてる。『般若心経』『大般若経』を訳す。『大般若経』の漢訳完了後100日ほどして亡くなる。経典の漢訳としてはこれを新訳とするというほど画期的な翻訳だった。サンスクリット語を学んだものが、音訳ではなく意味で訳しているので。

804年:空海が唐に行く(第18次遣唐使)。梵語に磨きをかける

805年:長安にて密教を学ぶ。

となると、玄奘三蔵の新訳と、原典のサンスクリット経典の両方で密教を学んだ、ということですね。

nimben.hatenablog.com

 

参考資料

20年かけて、西安からローマまでのシルクロードを、主に自転車を使って旅した記録。多数の写真あり。

www.yunnan-k.jp

 

なるべく玄奘三蔵が通ったルートで往復する旅の記録。写真と動画あり。

www.asahi.com

 

地図参照:

sekainorekisi.com