cafe de nimben

見たものと、読んだもの

世界観に押し切られたい

アニメやコミックを摂取するのが好きだ。

その理由が最近わかってきた。

物語のリアリティラインと、私の脳内のリアリティラインのすり合わせがうまくいくからなのだ。

文字情報だけのリアリティライン

例えば小説だと、ほぼ完全に読者の脳の中でリアリティラインを設定できる。小説を読んだ人の中で、映像として浮かぶタイプの人であれば、そのラインを、CGなしの実写、CGありの実写、実写的アニメーション、デフォルメマシマシのアニメーションなどと、自分に合ったものを選択することができる。(もちろん自分脳内世界がそのうちの一つだけの人もいるし、もっと幅広い人もいる)

それは、小説が文字情報だけなので、読者が広い選択肢を持つことを許容するからだ。

挿絵や表紙の写真/絵を頼りにして映像化することもできる。まるっきり無視をして、文体やセリフを頼りに、読者は、「この主演俳優は、若い時の三船敏郎がいいな」とか「日本語作品だけど、スカーレット・ヨハンソンにやってもらいたい」とか自分なりのビジュアルを作り上げることもできる。自分の知識や想像力が及ばないところは、文字として読み流して、絵にしないことも可能だ。

しかし、映像作品は違う。

映像作品のリアリティライン

見せられたら、映像に対する視聴者の自由度はゼロ。それは作品としてのビジュアルが100%という配合になる。小説読者が映像化しなかったところも、表示される。

そこに、ビジュアルの好みの問題と、脚本に対するリアリティラインの問題が生じる。

ビジュアルの好みの問題は、例えば、「美人」と脚本に描かれたものが、視聴者の「美人」の好みに合わない場合、というやつ。これについては本項考察から外すけど。

脚本に対するリアリティラインというのは、例えば、「ご都合主義」をどこまで許容できるか、というところだ。

私は、御伽噺は、マンガ日本昔ばなしのようなアニメが好きだ。

 

あの映像世界であれば、竜の背中に子供が乗って空を飛んでいようが、猿が日本語を話して、柿を木の上から投げてこようが、桃から赤ん坊が生まれてこようが、丸っと許容できる。

しかしこれが、普通に現代実写作品として描かれると、勘弁してください、と思う。

脚本が求める世界観の、ビジュアル面での作り込み

映像がリアルなんだから、重力加速度は9.8m/s2だし、外国人はまれにしか日本語を話さない、というリアリティラインを踏み越えるとちょっと辛いと私は感じる。

もちろん、例えばうまいことワイヤーアクションとか使って、「ちょっと盛っている」か「そういう世界観なんだと映像の力で押し切る」をしてもらえると、私の許容度は上がる。そういう意味で『少林サッカー』に文句はつけない。

あるいは、そういうのをぶっちぎる、主演俳優のパワーで押し切られるのも好きだ。

森下洋子が演じるロミオとジュリエット。50歳を超えるバレエダンサーが14歳を演じて可憐だと思うとか。


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天海祐希が舞台に立つと、リアリティラインなんてコマけーこと言うんじゃないよ的な。


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これは構わない。私の中で、そういう世界観が押し切られるだけなので。

世界観がツギハギでノイズになっているようなものが、嫌いなんだと思う。

作品世界にのめり込めないから。

世界観で、うまく騙されたい。