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見たものと、読んだもの

ヤマシタトモコ『違国日記』第8巻

相変わらず、深いテーマを、深刻にはならずに、むしろコミカルに描く卓越の技。

 

えみりのカミングアウトの話と、朝の父親は「誰」だったのかを調べる探偵話。どちらも結論づけられるわけではない。探す途中。

「発話する方には悪気はないが、受け取る方には痛みを感じる」言葉について、触れられていて、じっと自分の顔を見つめ直さざるを得ない、という感覚がある。

言われる方は、傷つく。言う方は特に深い意味があって言っているわけではない。

悪意があるよりも、こっちの方が心の芯に届いてしまう気がする。悪意がないものは、ファイアウォールをすり抜ける。特に、信頼している人からの、ふとした、雑な言葉は。

名前をつけない強さ、それは正解を外に求めないこと

一つざわざわくるのは、「正解を求めている」という朝たちのような若者の動き方だろうか。槙生のように、「関係に名前なんかなくていいんだよ」と、「正解」ではなく、そこに「ただある」ことを認めて、正解不正解という判断をしない、という生き方がいいような気が、私はしている。

ただ、これはなかなか辛い。

正解じゃないことを人に責められたくない。ここでいう「人」は、自分が相対する相手のことでもあるし、世間という第三者のこともある。「名前なんかなくていいんだよ」というのは、この人たちから責められても、「ふーん、それで?」という覚悟が、自覚的無自覚的を問わずあるひと、という気がする。

自己肯定感がないと、正解を外に求めてしまうのでは?

それって別の言葉で言うと、自己肯定感ではないだろうか。

弁護士の塔野さんは朝に「やりたことというか、自分探しというか」をどうやって見つけたのかを問われて、「探すまでもなく『ある』ものなので、それを見つめ直せばよいのではないですか?」と答える。

自分探しをする人が探している自分は、今のありのままの自分ではなく、自分がなるべき自分。だから、この話は、いつだってすれ違うと言うことなのだな、とやっと言語化できた気がする。自己肯定感が低かったら、ありのままの自分なんて認められないから、「ここではないどこか」にいるはずの自分ないし、自分を受け入れてくれる世間を探しにいくってことなんじゃないか、と思う。

外からの手をきちんと受け入れられると言うこと

「三つ子の魂百まで」とよくいうが、人生の最初の頃に自分を低く見積もる癖がついたら、厄介だ。低く見積りすぎていることに気づかず一生を終えることもあるし、気づいたところでどうやって高くすればいいのか、途方に暮れる。

自分は人に助けてもらう価値などないと思えば、助けを人に求めることなんてできないし、向こうから手を差し伸べてもらっても、それを受け取るどころか、叩いて関係性を切ることも珍しいことではない。

いいタイミングで、いいひとと話すことでしか、その狭い扉は開かない。

いっそ奇跡と言うべきだ。

なので、うまいこと人に甘えることを良しとして生きるコツと、扉を閉ざしてしまう瞬間があるとすれば、天岩戸のように開くこともあるという経験を、若いうちにしておいてほしいなあ、とか思う。

朝の、たまにちょっとおバカさんかもと思う時もあるけど、てらいなく人に質問をぶつけることができる、という点に対して、私はすごく尊敬する。

 

実際に経験がなくても、こういうフィクションで、得られるといい。

これだから、フィクションはやめられない。