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見たものと、読んだもの

小川一水『天冥の標』(てんめいのしるべ)早川書房/冥王斑

感想をどういう書き方にしようと悩んでいた。

10巻17冊の大河小説なので、いろんな切り方ができる。しかもダレ場というか無駄なところがなく、どれをどうとっても濃い。本当は相当書いて削っているんだろうなあという感じで、書こうと思ったらこの倍の外伝が書けるのではなかろうか。

ここからは、完全ネタバレでいく。

ただし、タランティーノの時系列崩しのように、読んでいって頭の中で「ああこういうことだったのね」というびっくりを堪能する物語でもあるので、ここからは、読む気はないか、読んだ後の人限定でお願いしたい。伏線回収の読書体験は、最初の一発がとても大事で読み手にとってオリジナルなので、そこの邪魔になるのはもったいないので。

ああ、そういう意味だと、ミステリーに分類してもいいくらいだね、このお話。

 

オムニフロラという繁殖侵略

あえてものすごく単純化すると、1つの強大な敵と戦う物語だ。

オムニフロラという「繁殖」ということだけに特化した生物的には進化しない生命体が放つウイルスによって、種の生命が脅かされている進化する生命体たちとの戦い。後者には地球人類も含む。

オムニフロラは、そして、ダダーは、被展開体という構造を持つ生物である。

オムニフロラは、中国の想像上の怪獣、「犭貪(トン)」を思い起こす。貪る。増える。食べられるものがなくなれば、別のところに行く。食べられる物を見つけると、貪り、増える。そして、という構造を宿命とする。

そこに思想ではなく、増えることそのものだけを見ると、その存在自体がウイルスに近い。

ウイルスと似ているのは、その侵略方法である。地球では冥王斑と名付けられた致死率95%というエボラやマールブルグのような疫病となり、また5%の完治者も、無症状にもかかわらず一生ウイルスをもち、濃厚接触をすると、相手を感染させることができる。完治すれば普通通りに生活をすることができる。子供も作れる。子供は垂直感染をしているので、生涯キャリアとなる。

非展開体という特異性

人間でいうと、あなた、という人間が個体名。人類という種別。人類と違うのは、群体自体でも考えることができる。また個体ごとにシンクロしたりもできる。考え方は、ソフトウェアに近い。一つのバージョンの軸があり、それがForkしてサブストリームを作り、Forkされたサブストリーム同士は連携をとることができ、マージされることもある。持っている記憶はシンクロすることが可能。また、ネットワークにつながずに、それ単体で生きていくことも可能。メインストリームと言っても、確固たるメインがあるわけでもない。あえていうと群全体となって初めてメインストリームで、サブストリームは従属関係にあるわけではない。そういう意味で、魚の群体のような動きをしているようにも見える。

キャリアに押し付けられる差別

パンデミックにさせないために、隔離政策が取られる。人権を考えない乱暴な考え方では、感染者を皆殺しにして、ウイルス根絶という考え方もあったろうと思う。しかし、そうはならなかった。その血が、血清となるからだ。これによって、冥王斑のコミュニティは、隔離されながらも存続する、させられる。まるで江戸時代の農業政策「生かさぬよう、殺さぬよう」のようだ。

完治しても、感染を防ぐため、二度と元の生活には戻れない。今までの全ての縁を切り捨てられ、冥王斑コミュニティの中で生きていくしかない。完治した罰であるかのように。垂直感染したものは、生まれながらのキャリアとして、これも冥王斑コミュニティの中で生きていくしかない。押し詰められた痛みは、個人というよりも集団の恨みとなって蓄積し、爆発する。

著者がすごいのは、冥王斑のコミュニティの被害者としての正当な恨みと、被害者意識による歪んだ恨みと、隔離させられていることによる無知とをブレンドした集団心理を描き出しているところだ。ただの「可哀想な集団」に対する同情を許してはくれない。自分の中にある差別感情や、彼らの痛みが爆発したことによる人類史上例のない大虐殺を正当なものとして、非冥王斑人である読者は飲み込むことはできるのか?

 

しかし、コロナがある程度の収まりを見せている今、もう一度読むと、読後感が異なるかもしれないね。