cafe de nimben

見たものと、読んだもの

たらちねジョン『海が走るエンドロール』(2巻。続刊中)

65歳の老女が映画を撮る話、というまとめ方は正しいのだが、本質はそこではない気がする。

なぜか自分で蓋をしてきてしまった何かを、誰が何を言おうと、きちんと解放する話。今まで怖くて見てこなかったものに、きちんと対峙して、解像度高く見てみることを恐れない勇気の話。

かな。

"This is me" な話だと思う。

 

等身大でない描かれ方をする老年の人って、多くないですか?

常々思うのですが、歳をとっている人の描き方って、ステレオタイプが多くないっすか? 映画でも小説でもドラマでも、実写でもアニメでもですが、多くの場合の主人公は若者が多くて、うみ子さん(65歳)年齢だと、昔のドラマだとタバコ屋の店番のおばあちゃんとか、たまに出てきて孫を慰めてくれるとか、昔の思想で固まりすぎて主人公を老害っぽく理不尽に押し付けるとか、そういう役ばっかりな気がする。


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プラダを着た悪魔 / The Devil Wears Prada』 (2006)のミランダは、最初はそう見せてもっと深いところを後から描写してくれるのではあるが。 

 

等身大のうみ子さんが魅力的。

うみ子さんは、料理をするし、娘とテレビ電話するし(Face time?)、一人で映画は見にいくし。ゆっくり歩かないとカメラをうまく固定できない程度の筋力だし。老人の一人ではなく、うみ子さんとして描写されていく。

ステレオタイプではない、きちんとその人という解像度で描いてくれると、なんか良い。75歳が主人公の『メタモルフォーゼの縁側』も、そういう等身大さがとてもよかった。

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ドラマの駆動力である、歳など関係ない unlearn 力

うみ子さんは、思いだす。

「映画が好き」の解像度を上げると、「映画を観ている人が好き」だということに。それが亡き夫のセリフだったことを思い出すのも、抒情的で良い。自分の蓋を自分で開けるのはなかなか難しいが、自分が覚えていた他人の言葉であれば、もっと簡単になるはずだ。

そこに、もう一人の主人公、海(カイ)の

うみ子さんさあ
映画作りたい側の人じゃないの?
どんな面白い映画観てもさ客席が気になるの
自分の作った映画がこんな風に見られたらって考えちゃってさ
ゾクゾクするからなんじゃないの?

が、被さる。しかも「映画作りたい側」に「こっち側」という振り仮名がついて。

これは、「映画を作りたいんでしょ」と看破するのと同時に、「こっち側においでよ」というプロポーズに近い。

そして、自分で見ないことにしていた欲望が解き放たれる様を、海のメタファーで表されるのは、絵として見ていて心地よい。

短編だったら、御伽噺だったら、ここで終わる。

「うみ子さんは、天命である映画作りに目覚め、幸せに暮らしましたとさ」

ここから、まだ、うみ子さんの学生生活は続く。同級生とぶつかり合いながら、新しい地平を描いていく。ここから新しい出会いがあって、それが楽しいものか、苦しいものか、今まで染み付いたものを unlearn していくものなのか、うまくできなくて凡庸な「ただの老後の趣味の自由時間」に結果的に落ち着くのか、それはわからない。

でも、もう、このチャレンジに一歩踏み出せただけで、5億点ですわねぇ。素敵。

 

海の存在と今後

この物語が凡庸になるかどうかは、もう一人の主人公が、今後どう出てくるかによる。

海(カイ)は、うみ子さんを unlearnさせる存在として当初は出てきた。波風を立てないものの言い方をうみ子さんがするたびに「そういうのいいんで」とバッサリ切るところは痛快だった。

でも、それを引き剥がすだけが彼の、この物語の中の役割ではない。はず。

まだまだ彼には謎が多いのだけど、それの発露と、そしてそれに対峙するうみこさんの反応で、この物語は紡がれていくのだろう。

これからも楽しみだ。