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見たものと、読んだもの

木村元彦『オシムの言葉』 (集英社文庫) Kindle版

歴史に「たら、れば」はないのだが、オシムが日本代表を率いて2010年W杯南アフリカ大会に臨む未来を見たかった。

2022年5月1日没。

紙の本でも持っていたと思うが、今回Kindleで買い直して再読した。

生存者バイアスに与しない、言葉師

国が分裂し、昨日まで隣人だったもの同士が虐殺を行うという「民族浄化」を伴うボスニア内戦。たまたま仕事でサラエヴォを離れていたオシムは、そのままギリシアのクラブ監督に就任することになったが、妻はサラエヴォに取り残される。運よく再び会うことができるのだが、2年半かかっている。

ウクライナ/ロシア戦争を見るに、取り残された人たちの悲惨さは、リアルタイムの時よりも胸に迫る。

 

オシムがプレッシャーを跳ね除けて監督業をするに当たって、記者から

試合中に何が起こっても動じない精神、あるいは外国での指導に必要な他文化に対する許容力の高さをそこで改めて得られたのではないか。

と問われたとき、

「確かにそういうところから影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にするときは影響は受けていないと言ったほうがいいだろう」

オシムは静かな口調で否定する。

「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……」

紙の本で読んでいたときは、ここに嗚咽のようなものを感じた。

再読してみると、ここの「静かな口調」という記述に、感情を強くコントロールした、そしてユーモアで包むことも許されない確固たる思いを感じるようになった。

 

生存者バイアスという言い方がある。

「俺はこんな酷い経験をしてきたが、それから学べたからこそ、今のような成功を収めた」というような話だ。

実際、そこから学ばなければ生き残れないことは多いとは思う。しかし、人間、割と短絡的な生き物だ。「私のような素晴らしい人間になれたのは、あの酷い経験があったからだ」と、簡単にいうようになる。

そういう転倒を注意深く外していきたがるのが、オシムの言葉遣いの原点にあるような気がする。

言葉を雑に扱うものは、言葉から雑に扱われるのかもしれない。

雑に扱われたくなければ、言葉を丁寧に使う必要があり、それは、時に「めんどくさい」と言われる。「めんどくさい」と言われることを嬉しいと思う人はいない。少なくとも私は嫌な気分になる。

それを、ユーモアに包んで、相手に届けるようにしていったからこそ、インタビュアー泣かせと言われながらも愛されてきた、ということではないか、と思う。

 

視座の高さと、「いい人生」とはという問い

そして、言葉遣いの他に、彼が持つ視座の高さが、聞くひとを解放するのではなかろうか。

1992年、「人生においては、サッカーよりも大切なものがたくさんある」と言って、ユーゴスラビア代表監督を辞任した。この本を読む限り、24時間の全てをサッカーに捧げていたオシムが、だ。もちろん、高度に政治的な発言を余儀なくされている時の言葉なので、それを直接真正面から受け取っていいのかわからない。しかし、家族と、そして一緒に戦ってきた選手たちとの話を読む限り、確かに、サッカーよりも大事なものが、何かしらあったのだと思う。

何かは、描かれていはいない。

リスクの取り方、の話として、それがあったことはうかがえる。

 

サッカーで勝ち点を奪う方法は、守りを固めて、相手のミスに漬け込んで点が取れればよし、相手がミスしなくても0-0で引き分ければよし、というものだ。これが一番、リスクが少ない。「そんな青臭い理想論を言って、負けたらどうする?」と言い返せば、大抵の人は黙るだろう。

例えば、相手の天才的な選手に、マンマークに強い選手をぶつけて、90分足を止めさせればいい。確か、オリンピックで、ソ連の選手がそれをやった。マークに付かれた方は、水分補給の時までずっとストーカーのようにくっついてきたという逸話があった気がする。

これはこれで、一つの考え方だ。実際、サッカー賭博で死人が出るような場合、負けるわけにはいかないので、この戦術を使っていたというのは、正しいと言える。

 

しかしこの「正しさ」の果てに、何を得るのか? 逆に、その正しさを捨てて、リスクをとってでも得たいものは何なのか?

守るのは簡単ですよ。作り上げることより崩すことは簡単なんです。家を建てるのは難しいが、崩すのは一瞬。サッカーもそうでしょう。攻撃的ないいサッカーをしようとする。それはいい家を建てようとする意味。ただ、それを壊すのは簡単です。先住的なファウルをしたり、引いて守ったりして、相手のいいプレーをブチ壊せばいい。作り上げる、つまり攻めることは難しい。でもね、作り上げることの方がいい人生でしょう。そう思いませんか?

そう思う。そして、仕事だからと、そう思わない生き方を自分に課す人生に、抗っていきたい。そして、それこそが、オシムが人生を賭けて、サッカーという分野でやってきたことなのではないか、と思う。

「いい人生」とは何だろう、というのがオシムの問いのような気がする。

そして多民族が混じり合って生きてきた、今はもうないユーゴスラビアサラエボで培われた、多様性を、その語り口に感じる。

「私には私が過ごしたいい人生があり、あなたにはあなたのそれがある。今日があなたにとっていい人生の一日でありますように」という書かれていない言葉を、読み取ってしまう自分がいた。

 

年表

ユーゴスラビア連邦共和国出身のボスニア人。

1941年、サラエヴォで生まれる。

1959年、プロサッカー選手に。(フォワード)

1964年、東京オリンピックに、ユーゴスラビア代表として来日。

1978年、現役引退。指導者としてキャリア開始。

1986年、ユーゴスラビア代表監督に就任。

1990年、ドラガン・ストイコビッチを擁し、東欧のブラジルと言われたユーゴスラビアを率い、FIFAワールドカップイタリア大会でベスト8。

1992年、ユーゴスラビア連邦から、ボスニア・ヘルツェゴビナが離脱、ユーゴスラビア軍がサラエヴォに侵攻。代表監督辞任。

1992年、ギリシアパナシナイコス監督。

1993年、8年にわたってオーストリアSKシュトゥルム・グラーツの監督となり、ビッグクラブでもないのにUEFAチャンピオンズリーグに3度出場。

2003年、ジェフユナイテッド市原の監督に就任

2006年、日本代表監督に就任

2007年、脳梗塞で倒れ、監督退任。以後、監督業を行うことはなかった。

2022年、没