cafe de nimben

見たものと、読んだもの

TATE Britain / テートブリテン

テートブリテンは、国立美術館グループ「TATE」のなかで、イギリス芸術を担当する。のちに記述するテートモダンは近現代芸術担当。

イギリス風景画の巨人JMWターナーの作品専用のクロア・ギャラリーもあるが、今回はみる時間がなくて断念。次はクロア・ギャラリーのためだけにテートブリテンに行きたい。

場所

Victoria線でPimlico駅から歩きました。ちょっと遠いかな。途中のChelsea College of Arts and Designではなんかでっかいオブジェがつくられていたので、そういうのをみながらいくのもいいかも。

 

木の大きなオブジェ。ひとが入れます。↓

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おなじVictria線でVauxhall Station駅から川をわたってくると、テートブリテンの建物がよく見えるのでよいかも。あとはハシゴ前提で、川から。テートモダンへ/から、というのもいいかも。

オフェーリア

オフェーリアを見に行きたかったのだ。(1851-52/ Sir John Everett Millais, Bt )

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Image released under Creative Commons CC-BY-NC-ND (3.0 Unported)

ハムレット」のオフィーリアが、ついに川の底に沈む一瞬前、エロスというかタナトスというかいろんな解釈のできそうな表情をしているすがたは、精細に描かれた周りの草花のニュアンスと相まって、何度見ても美しい。

そしたら、その逆方向の壁に、似たようなニュアンスの絵があった

 

シャーロット夫人

The Lady of Shalott (1888, John William Waterhouse )

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Image released under Creative Commons CC-BY-NC-ND (3.0 Unported)

内容の公式サマリーはこちら→'The Lady of Shalott', John William Waterhouse: Summary | | Tate

ゆらりと運命が最後の歯車を回し始め、そしてそれを誰も止めることはできない。美女は運命を受け入れるというよりも絶望にひたりながら、船がついに動きだそうとする。何かの物語の始まりかもしれないし、終わりかもしれない。

調べてみると、これはTennysonの詩だという。

And down the river's dim expanse
Like some bold seer in a trance,
Seeing all his own mischance
With glassy countenance
Did she look to Camelot.
And at the closing of the day
She loosed the chain, and down she lay;
The broad stream bore her far away,
The Lady of Shalott.

そして川は薄暗く広がっている
トランス状態になった傲慢な予知者が
自らの不運をすべて見通してしまい
草のようなうつろになったような表情で
彼女はキャメロットをみた
やがて日は暮れ
彼女は鎖を緩めて横たわる
大きな川の流れが彼女を遠くへ流し去る
シャーロット夫人を

ニュアンスがうまく訳出できないなあ。黒い川と黒い闇のなかを、シャーロット夫人という明かりが黒い川と闇のなかを光りの穴を開けながらしかし流されていき、たゆたう流れのなかでついにその光りも消え、最後に闇だけが残る、というような絵が妄想的に浮かぶのだが。

恥ずかしいことにアーサー王の伝説、ほとんどわからないので、ちょっと勉強しよう。

キャメロットアーサー王伝説の都の名前だということすら知らなかった。

Carnation, Lily, Lily, Rose

いちばんかわいかったのは、こちら。「カーネション、ユリ、ユリ、バラ」John Singer Sargent 1885-6

'Carnation, Lily, Lily, Rose', John Singer Sargent | Tate

 

John Singer Sargent - Carnation, Lily, Lily, Rose - Google Art Project.jpg
  - Tate Images (http://www.tate-images.com/results.asp?image=N01615&wwwflag=3&imagepos=1>), パブリック・ドメイン, リンクによる

なんとも愛らしい。

どうやらぼくにとってテートブリテンは19世紀中盤の可愛らしい叙情性のある絵がそろっている美術館みたい。(←クロアギャラリーみていないのに何を言う)

パフォーマンスアート

ターナー賞展などもやっていたのだが、ちょっと時間がなかったので出ようかとしていたところ、いきなりこじっまりしたホールと廊下の中間のような場所でパフォーマンスが始まった。

バレエシューズを履いた3名の女性ダンサーが、特に音楽もなく踊り始める。法則性を見出そうとすると、床に描かれた2パターンにそって踊る人と、それには合わせずに踊る人がいる。振り付けは似ているが、ずっとシンクロしているわけではない。

とくに開始ですよという合図も、終わりですという合図もなく、たんたんとたんたんと踊り続ける。

じっと見ているひともいれば、まったく無視しているひともいる。

すごくかっこいいとかそういうものでもない。

ただ、芸術がただただそこの空気のなかにあるような感じで、特別なものというより日常的ななにかだった。

そしてそれは、芸術都市ロンドンを象徴するようなものかもしれないとおもった。

シン・ゴジラ 英語字幕版

飛行機の中で鑑賞。

画面が文字で一杯。さすがに読み切れない(笑)

平成明朝体で書かれる説明字幕は、スクリーンの左上に英文で書かれていた。かなり忠実。画面を写真に撮りたかったが、さすがに自重した。

会話部分を素直に字幕にするのは、無理があるので、どうしても過剰にシンプルにならざるを得ない。このため、かなりのニュアンスがなくなる。ポジティブにいえば、言い訳がましく色々言っているところがなくなって、全員が前向きにプラグマティックに仕事をしてる風に見える。

ただ、省庁の英字略称が説明なくかかれているので、なんのことかわからせる気がないかも。さらには、海外のふつうのひとはSDFとかいてあって何のことかはわからないよね。Self Deffence Force, 自衛隊

わからせるためにはArmy/Navy/Air Forceをつかうんだけれど、配慮が勝っているんだろう。

これ、世界公開するならさすがに吹き替えでないと厳しいのは、よくわかった。

 

新井素子『星へ行く船』『通りすがりのレイディ』出版芸術社2016

再販です。

星へ行く船シリーズ1星へ行く船

星へ行く船シリーズ1星へ行く船

 
星へ行く船シリーズ2通りすがりのレイディ

星へ行く船シリーズ2通りすがりのレイディ

 

 

オリジナルは1981年から刊行されるコバルト文庫の『星へ行く船』シリーズ全5巻。

出版芸術社から決定版として再出版されることになった。思春期だったころに読んでいたシリーズを、もう一度読むというのは、なかなか勇気がいる。

ひとつには年をとったので、いわゆるジュニア小説文体を今読んで読めるものなのか。

もうひとつは、思い出補正でハードルがとてつもなく上がっていて、けっこんなのつまらんと言い放ちはしないだろうか、ぼくが。

正直『星へ行く船』はちょいとつらかった。第一のほうの理由で。

 宙港は、ごったがえしていた。そう、いつだってここはごったがえしているんだ。俺は一種の感慨を覚えながら思う。この前宙港へ来たのは、確か、中学の修学旅行で月へ行った時だった。その時も、ここは人でいっぱいだったっけ……。

 あれからもう五年もたつのかあ。軽く足で空をける。小石でもけりたい処なんだけど、つめたい光沢のリノリウムばりの床には、勿論石なんておちていない。あれからもう五年。いつの間にか。そう、いつの間にか、俺は十九になっちまっていた。

 というのが冒頭だ。「なっちまっていた」なんてさすがに今時つかわないからね。

でもまあ、それは慣れというもので。少しずつ、読み手のほうが作品世界に近づいていけばいい。

このシリーズで一番好きなのは『通りすがりのレイディ』で、ぼくもレイディが好きなのだ。

「(前略)自分が運のいい子だって確信と、”我、ことにおいて後悔せず”っていうのと、”人間万事塞翁が馬”っていうのがくっついちゃったら、できあがるのは超弩級楽天家だろうって」

  超弩級楽天家ーー確かに。と。レイディ、急に真面目な顔になる。

「でもね。わたしにはあと二つばかり信念があるのよ。”不撓不屈”っていうのと……”誰が従容として運命に従ってやるものか”っていうの」

これを読んだ瞬間に、たぶん、ぼくはレイディに恋に落ちた。

細かいところは覚えていなくても、全体としてどういうことかは覚えているわけで、どうしてこういうセリフをいわなかならないのか、すでに知っているんだもん。

全く覚えていなかったとしても、莫迦だなあ、たぶんぼくはここで泣く。

そりゃ、ね。アクションシーンどうにかならないのとか。なんでみんなそんなにいいひとなのとか、ありますよ。でもさ、それはジュニア小説の文法だから、そこは引っかかる処じゃないというか、引っかかったらそもそも読むな的な。フランス書院文庫にエロを求めないくらい変な話で。

好き嫌いがあるとはおもうけれど、キャラクターが魅力的。キャラクターたちは、リアルタイムで読んでいる時はお兄さんお姉さんだったけれど、いまでは年下というか、下手したら、ほんとうにすごい下手をしたら自分の子供くらい。読みながら、あのお兄さんお姉さんが、という懐古的な読み方と、若いのに大人だねえとか、わかいねえとか思いながらいまの気持ちで読むとか。複雑すぎてよくわかんないことになっているけれど。

やっぱ思春期に、同時代にリアルタイムで読んでいてよかった。

 そして、もう一度そのときの気持ちを味わいながら、それなりに年をとった中で読み返すチャンスがあって、ほんとうによかった。

<Fin>  <-- ずっと「フィン」って読んでいたけれど、フランス語だったら「ファン」だね。こうやって知識は更新されていく。

 

鈴木其一 『江戸琳派の旗手』 @サントリー美術館

私にとって、紙のきんきらきんは、2種類ある。狩野派琳派だ。

私にとっての狩野派琳派の違いは、威風堂々と軽妙洒脱だ。

いまは軽妙洒脱がとても好みなので、昨年末から楽しみにしてきた。

時代的には、異国船が来始めて、江戸から明治への動乱期に差し掛かろうという時期。絵師としては、若冲より50年くらい下がりの、国芳や広重とほぼため年。師匠の酒井抱一直系の弟子。

で、うーん、鈴木其一って、なんとなく自分の中の琳派からははみ出していることがわかり、そしてそのはみ出し方が心地いい感じ。

www.suntory.co.jp

主品物リストはこちら

キービジュアルは、『朝顔図屏風』。ザ・琳派という絵面。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7c/Asagao-zu_By%C5%8Dbu_by_Kiitsu_Suzuki.jpg

(左隻/ public domain)

 

もちろん、琳派だとこれを描いておけという『風神雷神襖図』

Wind God and Thunder God (left screen)

Wind God and Thunder God (right screen)
作者 Suzuki Kiitsu (Tokyo Fuji Art Museum) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由で

 

ちょっと襖が金箔で覆われていないのが琳派っぽくないけど、墨のたらしこみ風神雷神の顔や所作は「ザ」って感じ。

ほかにも、『群鶴図』『夏秋渓流図屏風』などなど、「ザ」がつくものいっぱいある。

ここらへんをみてて琳派だねぇと悦にいっていたときに、ふたつ、疑問が湧いてくる作品に出会う。

ひとつは、動植物を描くときの繊細さって、伊藤若冲に似てない?、という点。

鈴木其一の画風形成期における諸派習得の様相について』という研究があるので、参考にされたし。若冲の名前はでてこなかったが、いろんな画風を学んでいた様子が記述されている。

もうひとつは、きらきらしくない『十二ヶ月花鳥図扇面』とか『吉祥天女図』とか。画面がね、白いんです。余白で。その余白が憎いんです。そして、写真で切り取ったような静謐感。描いてあるところは被写界深度深めに精彩に記述。それ以外は記述しない。そういうミニマルな感じ。

ここらへんの静謐さが、ぼくにはかなり好みだった。琳派っていうのでひとくくりに考えちゃいけませんな、という広がりを感じられてとてもラッキーな展示会でした。

 

 

 

 

 

世界問答@プラネテス&鋼の錬金術師

世界問答はわたしの造語だ。自分の深淵にあるものを、自分より高次の何かと禅問答をすることをいう。

プラネテスだと猫と、鋼の錬金術師だと真理くんと、世界問答がある。

プラネテスをリアルタイムでは追っていなかったのでどれくらいかはわからないが、どちらも同じような世界問答をしている。そういう共時性がおもしろかった。21世紀になるってことで、何かそういうことを考えないといけないような何かがあったのかな?

ノストラダムスが来なかった、というのはあるかもしれないけど。

結論としては「腹八分目医者いらず」程度には当たり前のことをいうことになるのだが、それを自分の体験から結論づけるのと、単に知っているのとでは、やはりずいぶん違うようにおもう。

ひとによってはそんなことを考えるなんて暇だねえといってくるのだけれど、それを考えてしまうのは業とか趣味とか適当なことをいって、いなしておきたい。