昨年から、キャンプにハマりつつあり、道具を見るのが楽しい。
ひと段落したら、そのあたりの事を書くかも。
昨年から、キャンプにハマりつつあり、道具を見るのが楽しい。
ひと段落したら、そのあたりの事を書くかも。
コロナが落ち着いて来つつあるので、ちょっとは行けた。
2021年はどこにも行かなかった(行けなかった)ことを考えると、良化。
知識的に面白いなあと思ったのは、春のフェルメール。フェルメール『窓辺で手紙を読む女』の修復前後を見ることができたのは楽しかった。
昔はそんなにフェルメールに惹かれなかったのに、どうしたことか。適度な謎がそそるのか?
来年早々にアムステルダム美術館でフェルメール展をやるのだけれど、遠いけど行きたいなあと思うほど。2018年の上野の森美術館でのフェルメール展よりも多いんじゃなかろうか。
名前は聞くけど、よくわからなかったのだが、まるッと見ることができたので概要が掴めてきたのは嬉しい。
大型の作品が多かったのもあり、迫力を感じた。
『ビルケナウ』はどう解釈というか、咀嚼していいのか、いまだにわからないのだけれど。
ロスコーもそうだけど、何に執着しているのか対象はわからないけれど、執着しているという熱量だけはビンビンに感じるので、抽象画って面白い。言語化できないモヤモヤを解き明かすというか、それを見て、自分が知らない自分の感じ方に気づくというか。
国宝がこんなに一堂に見られるのは楽しい。
やはり、金箔が背景にある絵画が好きだなあ。狩野派、長谷川派、琳派、そして若冲。
サントリー美術館『京都・智積院の名宝』は、ほぼ同時期開催のトーハクにお客が取られたのか、人も多くなく、じっくり等伯を見れたので眼福でした。
美術館を超えて、自分で線を引くのって、面白いよねぇ。
今年は、前後期で展示替えがたくさんあるものが多かった。
『国宝 東京国立博物館のすべて』『日本美術をひも解く』なんかは、目玉が変わるくらいの。
そして、前期後期両方見る場合の割引については、やっぱり考えてほしいなあ。
もっと気軽に行けるので。まあ、そんなにいくなら会員になれ、という話かもしれないけれど。
今年はあんまり彫刻に触れる機会がなかったので、来年はたくさん見れるといいな。
#空也さんが彫刻系では一番良かった。
テートやルーブルの作品が来るようだけど、まだ、彫刻系はアンテナに引っかかっていないので、もうちょっと待ちなのか、美術館ではなく、教会やお寺さんに行けということなのか。はてさて。
国外だと、アムステルダム美術館のフェルメール展がすごいんだけどね。行きたい。
さて、来年は何を見ましょうか?
最後に、皆さんのご健康とご多幸をお祈りして。
トーハクの国宝展繋がりで、長谷川派の図屏風があると聞き、参上。
長谷川等伯やその息子の久蔵の図屏風(国宝)も良かったが、全く予期していなかった堂本印象の図屏風も良かった。こういう良き出会いって素敵。
楓図
Asie - auteur: Akiyama Terukazu - éditeur: éditions Albert Skira – リンクによる
桜図
長谷川久蔵 - Shimizu, Christine: L'art japonais, Flammarion, パブリック・ドメイン, リンクによる
松に草花図
長谷川等伯 - Postcard published before 1986, パブリック・ドメイン, リンクによる
キンキラキンなのに躍動的で静謐。
世の盛りが満月ならば、その1番の輝きを描こうというものなのに、これから咲いていくような生命力をも感じる。
この壁画や図屏風を肴に、お酒を飲みたい。
松林図屏風は以下のように水墨画なので、感じは違う。(東京国立博物館のものなので、サントリーでは展示されていない)
これも、冬の雪や風に煽られながらも、強く生きているという生命の強さを感じる。
『松桜柳図』が、またいい。図屏風だけど等伯とは全く違う色彩の、昭和三十三年の作品。具象画と抽象画の間にあるような。色彩もポップなのに静謐という。
このうち、松林図屏風(#3)は、東京国立博物館の正月展示で有名。
他の2作は、智積院が保有。なお、読みは「ちしゃくいん」。「ちせきいん」ではない。(私は間違えてしまった)
来年2023年4月4日に、智積院宝物館ができるので、その間に、初めてお寺さんの外での展示、となる。
真言宗のお寺さん(なので、弘法大師の絵がある)。寺号は根来寺。
根来寺といえば、司馬遼太郎『尻啖え孫市』でお馴染み雑賀衆と同じ時代の鉄砲衆である根来衆は、ここを拠点としたことで知られる。根来寺は一度、豊臣秀吉によって壊滅されている(1585年)。高野山に難を逃れた住職の玄宥僧正が、祥雲寺を江戸幕府から譲り受け、再興 (1615年)。
祥雲寺は、3歳で亡くなった息子の菩提を弔うために、1591年に豊臣秀吉が建てた寺。長谷川等伯はの絵は、この祥雲寺のために描いたもの。
場所:東京国立博物館 平成館 特別展示室
期間:2022年10月18日(火) ~ 同年12月11日(日)
概要:150年記念ということで所蔵する国宝89件を全て展示+この150年の振り返り。
尾形光琳 (Ogata Korin, 1658 - 1716) - [1] at [2], パブリック・ドメイン, リンクによる
酒井抱一 - Emuseum, パブリック・ドメイン, リンクによる
元々は、建仁寺の図屏風の表と裏。これ、同時展示だったらよかったんだけどな。
2019年『原三溪の美術』(横浜美術館)でも目玉になっていた、国宝の『孔雀明王像』(平安時代)
By 不明 - uwEm0Ca3wrGrww at Google Cultural Institute maximum zoom level, パブリック・ドメイン, Link
結構複雑な造形なのにシンプルに見える。色も結構残っていて、美しい。
ノーマークだった『千手観音像』(平安時代。国宝)も美しかった。煌びやかなはずなのに静謐に見える。
不明 - Tokyo National Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる
『名作誕生 つながる日本美術』(2018) でも展示されていた、普賢さん。
不明 - Emuseum</>, パブリック・ドメイン, リンクによる
詳しい解説はこちら
平安時代の絵巻物。地獄を描く。
奈良国立博物館本(原家本)ではなく、東京国立博物館所蔵の安住院本。
雲火霧:
「雲火霧(うんかむ)」は、殺生、偸盗、邪淫の罪を犯した者などがおちる地獄。罪人たちは、炎の中に投げ込まれ、燃え尽き、蘇生し、また投げ込まれるというループを果てしなくくりかえす。(ループで責苦を繰り返すのは、地獄の特徴っぽい)
この他、髪火流処(はっかるしょ)という、五戒を守っている人に酒を与えて、戒めを破らせたものが落ちる地獄、などが展示されていた。
阿鼻叫喚の阿鼻は無間地獄、叫喚は叫喚地獄のことを指している。
無間地獄は一番の大罪を犯した者が入る地獄で、人間時間で682京年に相当する時間、この責苦を味わうことになる、というような天文学的な壮大な時間と、細かすぎるほどの責苦を受ける人の罪状が同時に描かれることが、なんともいえない。後白河法王が描かせ、蓮華王院三十三間堂宝蔵に納めた『六道絵』の一部だったという話もある。
同時期に表された『餓鬼草子』もすごかった。
これが描かれた平安末期って、どんな時代だったのか。平安末期で後白河法皇が生きていた時代といえば、養和の大飢饉(1181年)(なお、木曾義仲が上洛したのが1183年)があるので、その時の様子が、実は写実的に描かれているのかもしれない。
I, Sailko, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
三名の天人様と一緒に展示。お釈迦様が摩耶夫人の右袖からこんにちはしている。
仏像としては、運慶快慶的な写実的かつ歌舞いているものが好きなのだが、飛鳥時代のこの作品の軽やかさは、とてもあったかい気持ちになって素敵。
法隆寺宝物館で通年展示されているので、この国宝展が終わっても、すぐに見ることができる。
今回展示されている国宝89件のうち、日本刀関連(鞘2つを含む)が19件。(21%!)
また、天下五剣のうちの二振り、びじゅチューンでもお馴染み『三日月宗近』、日本刀の東の横綱とも言われ、源頼光が酒呑童子の首を刎ねたという伝説を持つ『童子切安綱』(平安時代。伯耆安綱)と、が展示されている。
『三日月宗近』は、表も裏も見ることができるという、なかなかレアな機会でした。
また、日本刀の西の横綱とされ、包平の中で最高とされる『大包平』(平安時代。古備前包平)なども展示されている。
今回のような目玉が展示替えになってしまう場合、回数券的なものを出してもらえないかなあ。
例えば、一回3000円。前期後期券が2 x 3000円=6000円のところ、5000円とか。
2回目に見るときに、展示替えがないものはあまり詳しくは見ないので、滞在時間が、場合によっては倍くらい違うんですよね。
もちろん、今は、瞬殺で予約が埋まる状態で、前期後期券を買っても、枠にはまるように予約が取れない場合のクレーム問題があるよね、というのはわかるんですけど。
この仁王様と、見返り美人は写真を撮ることができました。
世界がどんなに「正しい」としても、それが自分に合わないのであれば、声を上げて、自分らしくありたいと願う主人公が悪戦苦闘して、最後にそれを得る、というのがエンターテイメントの類型の一つだと思う。
特に近年は「私が私らしくある」ということを描くことに、フォーカスが当たっている。たとえば、それは、『グレーテストショーマン / The Greatest Showman』(2017) の "This is me"。
フィリップKディックの作品では、いつの間にかディストピアに組み込まれている市井の人々の苦悩が描かれていたりする。彼の原作の映画だと、たとえば『マイノリティリポート / Minority Report』(2002)
犯罪予防局に、やってもいない犯罪を犯すことを予見されて逮捕されたりとか。
『リコリス・リコイル』(2022) は、そういう意味で異様だった。
ディストピアで、ディストピアを強化するために働く(ないしは使い捨てにされる)主人公が、ディストピアを破壊する悪役と対峙する物語でもあるから。(話の本筋は、そこではないにしても)
ディストピアの中でも、こんな感じで自分らしく生きることができることを模索して実現できると楽しいよ、ということがエンターテイメントになるというのは、興味深い。
いわゆる「なろう小説」でも、ディストピアである日常から、ゲームの世界やファンタシーの世界に行って、無双する作品が多い。
ってことは、今の現実の世の中は、戦略的には全く変えられないディストピアということを前提に、その中で、ないしはその他で自分らしく生きていくという物語の方が、感情移入やすいってことなのかなあ?