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見たものと、読んだもの

原作:マツキタツヤ、漫画:宇佐崎しろ『アクタージュ act-age』12巻

羅刹女』編が終わってしまった。

なんか、百城編ダイジェストと墨字無双と予告編という感じで、ちょっと食い足りなかったなあ。例えば20巻一気読みするとしたら、ここはこれくらいの分量がいいというと思うのだけど、11巻を読み終えて、これに百城がどう答えるのかを期待していた私としては、ちょっと肩透かしを食った気分。

おそらく私は、百城の「天使/悪魔」の切り替えを、言葉ではなく、漫画として読んでみたかったんだろうな。しかしそれを書くと、夜凪の物語ではなくなるので、圧縮したのではないか、という気がしている。

黒山墨字、who?

あと、違和感の一つが、墨字の監督としての性能。彼は、優秀な「ドキュメンタリー」監督で、カンヌ・ベルリン・ヴェネツィアの世界3大映画祭全てに入賞しているが、日本ではマイナーな監督ということだが、ドキュメンタリー監督がエンタメの舞台の演出家としても成立するというのは、かなり稀有な才能ではないかという気がするのだが。

稽古で演出を研ぎ澄まし、座組のみんなを「泥舟」に乗せて、その人の個性を開花させ、普通の人ではたどり着けないところに送り届ける。これは、凄腕の舞台演出家であり、ドキュメンタリー監督という生き物とは違う気がする。

ドキュメンタリーは、やり直しがない。カメラの画角と編集で演出はできる。が、劇映画とは違って、これから撃たれて死ぬであろう女性に演技をつけられない。

もちろん、モキュメンタリーという映画ジャンルはある。『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』とか『カメラを止めるな』とか。本当は劇映画なのだけど、あたかもドキュメンタリーのように撮ってある作品群。


【映画】ブレア・ウィッチ・プロジェクト 日本国劇場予告

でもここらへん、結構一発屋的なものになるから、これでカンヌ、ベルリン、ヴェネツィアで入賞できるんかなあ。

 

日本人の戦場系だと『地雷を踏んだらサヨウナラ』あたりがイメージなのかな。主人公の一ノ瀬泰造は、戦場カメラマンとしてベトナム戦争から戦争が飛び火したカンボジアなどで活躍。1973年にクメールルージュに処刑される。


地雷を踏んだらサヨウナラ Trailer

 

もちろんフィクションなんだから、どんな人がいてもいい。

この辺りの裏設定、どこかで開示されるだろうから、色々予想していくのは楽しみだ。

 

nimben.hatenablog.com

 

 

 

 

田中裕介『怪物さん』平井堅 feat. あいみょん MV

MVっておもしろいなあと久々に思って。


平井 堅 『怪物さん feat.あいみょん』MUSIC VIDEO

 

あいみょんは『マリーゴールド』などで色々人気なのは知っているのだが、きちんと聞いたことがなかった。

平井堅は、テレビドラマ『王様のレストラン』の主題歌でデビューした時から知っていて、『大きな古時計』『瞳をとじて』『キミはともだち』『POP STAR』あたりをリアルタイムで追っていた。

6月30日まで、HD化したMVが期間限定でYouTubeのオフィシャルチャネルで公開されていて、そこで見つけたのが、この配信限定シングル『怪物さん』のMVだった。

 

歌がむずかしいと思うのは、上手くないと聞きたくないが、上手すぎると脳に引っかからず流れてしまうところ。

で、あいみょんだ。

彼女の歌声の「ほら、大丈夫って容易く聞く」などの、頭ではわかっているけど、惹かれてしまうという声の生々しい素晴らしさ。思い詰めたような表情もあいまって、どうしようもなさが炸裂だ。それを、平井堅が余裕の高音で対話していく。上手すぎてつるんとしているペラッペラさが、あいみょんを引き立てる。

 

監督は田中裕介

だるまさんが転んだをモチーフにし、このゲームを止めようとして止められない様子をとるのがまずおもしろい。色の使い方とか振り付けとか、真面目さと小馬鹿さが混じり合った世界。

と、ボーカリストの声と歌い方、歌詞、映像と、色々楽しかった。

 

田中監督作品のMVは例えば以下のようなもの。


サカナクション - 『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』(MUSIC VIDEO) -BEST ALBUM「魚図鑑」(3/28release)-


[Official Music Video] Perfume 「FLASH」


きゃりーぱみゅぱみゅ - Crazy Party Night ~ぱんぷきんの逆襲~,Kyary Pamyu Pamyu-Crazy Party Night-Pumpkins Strike Back-


Superfly - Dancing On The Fire

 

原作:マツキタツヤ、漫画:宇佐崎しろ『アクタージュ act-age』

人が人になるとはどういうことか。

孤独な人間が仲間を得るとはどういうことか。

アクタージュ act-age 11 (ジャンプコミックス)

アクタージュ act-age 11 (ジャンプコミックス)

 

少年漫画の主役には、面白い人が面白いことをただ行って笑わせるもの、凡人が努力の末に何がしかの高みに達するもの、何かが欠落している天才がその欠落を見出すもの*1 の三種類があると思う。これは3番目のお話。

11巻の立ち位置

生まれながらメソッド演技を独学で身につけてしまっていた主人公、夜凪景。

彼女が、役になり切るメソッド演技から、それを俯瞰して自分を操縦する演技ができるように、少しずつなっていく姿が描かれていく。

週刊ジャンプの連載なので、基本的にダレ場がなく、前回の問題の解決、往々にして解決策から導かれる副作用による問題発生で引き、次回はその問題の解決、と言うループで描かれていくので、テンポが良い。テンポを壊さないためにもキャラクターたちは自分の欲望にストレートに動く。これが青年誌などだと悩みが始まるところだが、そう言うのがないのが良い。

8巻から始まる『羅刹女』編の一つのクライマックスがこの11巻。

その怒りは誰のものか。演者か、役か?

個人的には、その怒りは誰のものか、と言う思いで読んでいる。

例えば、本当に怒り狂っている人が、その怒りを舞台の上で爆発させるとどうなるか。それは演者の私的な怒りであり、制御不能なものだ。アドリブで全部突き進めるならそれもありかもしれないが、開演と終演の時間があり、脚本があり、共演者がいる以上は、それは許されるものではない。

でもそこで「怒ったぞー(棒)」と言う演技をされても、リアリティがなさすぎて興醒めである。リアルに怒っているのと、リアリティのある怒りは別のものだ。

メソッド演技では、体験をもとに自分がその役の人間になり切ってその怒りなら怒りを表現する。しかし、内面で怒っていることと、外面で人に見せる怒りは、果たしてどの程度一緒のものなのか。逆に、個人としてのその人と、演じている役としてのその人と言うものの、感情の境界はどこにあるのか?

夜凪は戻って来れるのか?

よくいう役の中に入り込みすぎて「戻ってくる、こない」話だ。

実は連載1回目でいきなりそのレベルから話が始まる。夜凪景がオーディションで悲しい演技をする時、彼女は最初は深い悲しみに埋没している状態を作った。ほとんどの人にはわからなかったが、彼女を見出すことになる黒山墨字は一発でそれを見抜く。他の審査員が「やる気があるのか」と罵声を浴びせたところで、「バカにでもわかるようにやれ」と言う指示を与え、夜凪は目から涙を零す、そう言うシーンから始まるのだ。

そのあとは、そう言うシーンだとこの役の人はどう言う行動に出るかだとか、でもそれはあなたではなくこの役の人だから、あなたとしては正しい行動かもしれないが、その役の人として正しい行動だったのかとか、言葉にすると小難しく聞こえるかもしれない、そう言う繊細なシーンを積み上げていく。

この『羅刹女』の演技でも、彼女は、羅刹女としての怒りと、夜凪本人としての怒りの間を揺れ動く。その薄氷の上のバランスの取り具合と、その描写が素晴らしい。

そしてそれを暴走手前に押し留めるために、周りの人がどう動いていくのかというのも、丁寧な描写で素晴らしい。こういうの、サブキャラクターが入り過ぎればボケるし、入らなさすぎると立体感が不足するので、個人的に好きな塩梅。

「独学でメソッド演技を身につけた」の嘘本当。リアルとリアリティとこれから

このマンガの、ちょっと目を逸らしておかないといけないところは、そもそもの前提である「独学でメソッド演技を身に付けた」という説明だと思う。

独学で、自分が経験した感情を必要に応じて自分で完全再現できる、ということと、そのように他人に見せるというのは、違うことだからだ。コンピュータ的にいうと、かつての感情を今の自分の感情としてロードできることと、ロードされた感情を側から見てそう見えるように出力することは違う。前者は、過去から未来への時間軸で、ロード先は自分の中という見えない部分。後者はロードされた感情を、そうあるように身振り手振り声色などを用いて他人にそう見えるように動くこと。

例えば好きな相手にふられた時、ちょっと傷つくけどすぐ忘れる人もいれば、自殺してしまう人まで、受け取りの重たさは異なるし、行動も、泣く人、笑う人、怒る人、黙る人、盗んだバイクで走り出す人、いろいろいるはずで、唯一絶対の正解はない。演技としてはそれがリアリティを持つかどうかが問題で、リアルかどうかはまた別の話。

夜凪は、自宅にあった数々の名画を視聴することでメソッド演技を身につけたことになっている。とすれば、映画での演技を見ることで、表現方法をトレースできるようになるのと同時に、映画の演技で自分の中にある感情とリンクさせることができるようになり、しかもその二つを自分の体験と外部への表現方法というカードとして保存でき、いつでもそれを再現できるようになった、ということなのだろうか。

だとすると、外からどう見えるかだけに注力する百城千世子的になりそうなものなのに。墨山が、普通の役者、夜凪、百城と明神の、役中人物への感情ダイブと、表現についての模式図を4巻で示している。

そうなっていないとすれば、先の仮説は間違っている。映画の演技を見ることで、その役柄の感情を再体験し、それを自分の中にある体験と結びつけ、さらに役者の感情を高精細に把握するという、内向きのベクトルということだろう。んー、しかしだとすると、表現をしないわけだから「メソッド演技を独学でものにしている」という表現が適切ではないのではなかろうか。あくまで役の掘り下げ能力をものにしているだけであって。

夜凪の今後が楽しみ

とはいえ、この矛盾は、この作品の駆動力になっている。

今はあて書きにすぎない物を、よりうまく演じるという方向で、夜凪を役者として育てようとしている。そしてこの作品世界では、超一流の役者の地位を占めようとしている。

しかし今後は、夜凪であれば取らない考え方を、キャラクターが行う脚本や演出に対して、夜凪が演じるようになる(例えば、1巻の町娘のようなことをせず)のか、それとも王賀美のようにあくまでも自分のあてがきの演技だけで世界を制する方向に行くのか。その辺りが楽しみだ。あるいは、活かされる役者として、監督や共演者に助けられてきたが、座長として彼女は助ける側に回れるのか、とか。

今までは、無名の女子高校生が階段を駆け上がるところだが、今度は幅を広げる方向に行くとしたら、今の展開の爽快さを捨てざるを得ないかもしれず、ただそうやると少年漫画より青年漫画になってしまうかも知れずとなると、持ち味を殺してしまうことにもなりかねず。この方向に行くと、かわぐちかいじ『アクター』になってしまう。

 このドロドロしながら進んでいく物語も面白いんだけど、『アクタージュ』の路線じゃないかなあ。

ウダウダ言ってきたものの、明確な目標が提示されて、それを努力と友情で勝ち取るというサイクルでできているのが、そして夜凪が成長している姿を見ることができる、これがなんと言っても楽しい作品だ。

 

*1:鋼の錬金術師』カテゴリ

小川一水『天冥の標』(てんめいのしるべ)早川書房/途中経過6巻まで

残念ながら、今読むべき作品。 今のアメリカの状況が、タイミングが今だと叫んでいるからだ。それが残念でならない。もっと遠くの世界の話として読みたかった。しかし、それだけに、強く入ってくる物語だ。

《天冥の標》合本版

《天冥の標》合本版

 

もちろんそれを意図した物語ではない。現在のCOVID-19やアメリカの暴動についての本ではない。初出が2009年、最終巻が発売されたのが2019年10巻17冊におよぶ大河SFである。

今のところ、第6巻9冊目『宿怨』を読み終わったところ。

全体のネタバレ感想は、完走してから書く予定なので、どの巻に何が書かれているのかはまだ書かない。ただ、生きようとする人の業が、別の人の業を呼び寄せ、踏みにじり、そして踏みにじっているものはそれすら気づかず、踏みにじられている方は踏みにじられている以上に歪んでいき、時に爆発する様は、この作品をただのスペオペでもない重厚なものにしている。そしてそれは、スペイン風邪と大不況と人種差別暴動が同時に発生した、原作スティーブン・キング、監督クエンティン・タランティーノとまで揶揄される2020年アメリカの現状を、オーバーラップさせながら読んでしまう自分がいる。

書いていることの深層はかなり重いが、語り口はライトで世界観がわかってくると、ページをめくる手が止まらなくなることは、うけあう。

一回、第1巻に戻ってから、第7巻に行こうかな。

 

SFの、ノンフィクションの良いところは、こういう悲劇ですら、俯瞰して見ることができ、キャラクターに寄り添うことで自分のことのように感じることができることだ。なので、ある意味苦痛ではあるが、快いという、うまく言葉に表すことができない複雑な感情を浮かべているところだ。

読み終えたらまた別の感情になっているかも知れない。しかし、読み進める快楽と、終わってしまう悲しさと、読むことによって変容するであろう自分の心がどうなるのか。それもまた、読書の醍醐味で、それに値する本に出会えたことは、非常に嬉しいことだ。

 

リッチー・スミス『ジャドヴィル包囲戦 - 6日間の戦い-』2016

初めてUNのPeace Keeper としてコンゴに派兵された158名のアイルランド兵は、3,000名の敵に包囲されて孤立無援という絶望的な状況に置かれた指揮官は、どう決断するのか? という、実話をベースとしたお話。


The Siege of Jadotville - Main Trailer - Only on Netflix 7 October

 

時代背景

時は1961年。1月に就任したケネディ米大統領主導で、4月には米国がキューバに侵攻、失敗するピッグス湾事件発生。キューバ敵の敵は味方として、ソ連との関係を深める。喉元にソ連から匕首を突きつけられる状態のアメリカは緊張を高め、翌1962年のキューバ危機へと繋がる。そういう、第三次世界大戦の匂いが濃厚に漂う、そんな時代。

前年の1960年はアフリカの年と言われ17か国が独立を宣言。この中に、ベルギーの植民地だったコンゴ共和国がある。

コンゴ動乱略年表:この映画の時点まで

1960-1965年にわたるコンゴ動乱は、米ソ代理戦争ともなり、動乱中10万人が殺害されたとみられる悲惨な内戦だ。

 

1960年6月:ベルギーからコンゴ共和国が独立。中央政府が機能せず、治安が悪化。

1960年7月:南部のカタンガ州がカタンガ国として分離独立を宣言。

国連はカタンガの独立を認めず。

となって、内戦状態に突入。 

1960年8月:カタンガ州の北側に位置する南カサイ国も分離独立を宣言。

1960年8月:ルムンバ首相主導で南カサイに進軍。民間人の大量虐殺。

1960年9月:カサブブ大統領が、南カサイ大量虐殺を理由にルムンバ首相を更迭。

1960年9月:陸軍のモブツが無血クーデター、実権を握る。ルムンバ首相拘束。

 

1961年1月:ルムンバ元首相が処刑される。

1961年2月:モブツにより、カサブブが大統領に再任命。

1961年2月:チョンベは立場の強化のために、外国人傭兵を輸入。国連平和維持軍と傭兵隊との緊張が高まる。

1961年6月:オブライエンがカタンガの州都に着任

1961年7月:国連軍が約20,000名に増員

1961年8月:国連軍が、カタンガ憲兵隊の武装解除、外国人傭兵の逮捕/追放を開始

1961年9月:国連軍が、カタンガ傭兵部隊の拘留、カタンガ国政府幹部逮捕を目指す、モーソー作戦開始。「ジャドヴィル包囲戦」

1961年9月:コンゴ動乱の停戦調停に赴いていた国連事務総長ハマーショルド、飛行機事故で死去。

(動乱はまだまだ続く)

 

映画の感想

映画で描かれるのは、初めて国連平和維持軍として派兵されることになった実戦未経験のアイルランド軍がどうなるのか?

無能な上司によって適切なサポートが受けられない理不尽さ

その中で頑張るアイルランド

というところだ。

実戦未経験ということを強調するためか、隊員たちのちょっと牧歌的なところが描かれているのは、対比上おもしろい。

 

英雄

主役:パット・クインラン少佐 Commandant Pat Quinlan

この人、スーパーマンだよね。実戦未経験、戦史書は全て読破。頭でっかちで教条的なエリートかと思ったら、ヤバさへの嗅覚、臨機応変な対応、命がけで部下を守る、敵の嫌がることを確実にこなして足止めする。最後まで諦めない。まあ、賢すぎて、ボスマネージメントに失敗するんだけれど。

しかし、劇映画としては、淡々と書きすぎでは? もうちょっと英雄的に書いてもバチは当たらないのではないだろうか。かっこいいんだけど、ちょっと感情移入しづらい。

ある程度なんでもできるが普通の人で、大変な状況の中で乗り切るといえば『プライベートライアン』のトム・ハンクス演じるミラー大尉なのだが、ああ描くにはもっと尺が必要かも。

ただ、事実をベースにしているので、過剰に盛ることはしなかったのかもしれない。

悪役がすっきりしない

チョンベ カタンガ大統領は割とステレオタイプ的な悪役(悪くて強い敵)として描かれるが、描写は少ない。現地の傭兵隊長は、したたかで強くてかっこいい敵として描かれる。となると、明確な悪役は?

事実上、悪役は、カタンガ軍というよりも、国連軍のトップにあたるオブライエン博士だ。

戦略レベルの失敗がオブライエン博士(Conor Cruise O'Brien  :のちにアイルランド郵政大臣など歴任)によってもたらされた。彼は自己愛が強く、国連軍アイルランド舞台を見捨てる卑怯で無能な上司という悪役を担わされている。無能な味方と、有能な敵、どっちが手強いか、というのは、創業と守成どちらが難しいかという話と同じくらい論争のある話ではあるのだが。

敵よりも味方を悪役にするのは、劇映画としてはちょっと弱かった気もする。爽快感という意味で。

ブラッカイマー映画だったら、そういう中でも戦った英雄的なアイルランド軍という様に描かれるんじゃない?

ああ書かざるを得なかった何かがあるのだろうか? そう考えてオブライエンを深堀してみた。

オブライエンを深堀り

イギリスのガーディアン紙によるオブライエン批評だが

He had stirred up a hornets' nest internationally. One of the most vocal critics was Paul-Henri Spaak, then Belgian foreign minister and now remembered as an architect of European unity. "Who is Conor Cruise O'Brien?" asked Harold Macmillan, and answered his own question: "An unimportant, expendable man." Pressures on him, on the UN and on the Irish government multiplied. Hammarskjold was forced to desert his protege, then died in a plane crash and his successor, U Thant, formally agreed to a request from Aiken that O'Brien be released from further UN duty. Almost immediately, he announced his resignation from Irish government service.

Conor Cruise O'Brien | The Observer | The Guardian

要約:

彼は国際的にスズメバチの巣(=コンゴ)をかき混ぜた。当時のベルギー外相は彼の批判の急先鋒で「コナー・クルーズ・オブライエンとは誰だ? 重要ではない、使い捨ての男だ」と容赦ない批判をぶつけ、彼と国連とアイルランド政府に対してプレッシャーをかける。国連事務総長はオブライエンを切り捨て、その後飛行機事故で亡くなる。次の国連事務総長は、オブライエンを更迭する。

と、国際的な批判を浴びた人物として描いている。

まあ、ベルギーから見たら敵だからねぇ、こういう言われ方をするのはしょうがないかも。と言ってもハマーショルド国連事務総長は守ってあげないといけないんじゃないかな?

その後、このコンゴ動乱のことをオブライエンは 1969年に"To Katanga and Back" という本にまとめている。

一応、ちょっとだけ擁護しておくと、国家主権の立場から、軍事行動を行うのは非常に悪手ではあるので、行動が縛られるのは政略上仕方がない。また、ハマーショルド国連事務総長に手足を縛られてどうしようもなかった、という説もあるので、同情できるところもある。

しかし戦略レベルでは、投入した部隊が安全な状態にするのは必須。補給線が途絶えて包囲されやすいところに部隊をおくというのは、味方の死体を生産する行為であって、戦略上おかしいと言わざるを得ない。ただ、その戦略レベルは、オブライエンの範疇だったのか、アイルランド軍の範疇だったのか、その辺りは描かれていないので不明だ。実戦未経験だったのは前線の部隊だけではなく輜重部隊もだったとすると、一概にオブライアンだけを責めるのはフェアではない可能性もある。(まあ、そこまで確認する気力はないのだが)

包囲戦にフォーカスするならしょうがないのだが、オブライエンを真ん中に据えて、アメリカ、ソ連、ベルギー、カタンガコンゴに振り回されながらも前に進んでいくという物語だと、もしかするとオブライエンは泥臭いけれどかっこいい主役をはれたかもしれないね。立場が変わると見えるものも違う。

参考:コンゴ動乱略年表:もうちょっと詳しく&終わりまで

1960年6月:ベルギーからコンゴ共和国として独立。大統領に保守派のカサブブ、首相に革新派のルムンバ就任。このまま事実上の支配権を持ち続けたいベルギー(&コンゴ保守派)と、独立したのだからその構造を打破したいコンゴ革新派との間の軋轢が表面化。カサブブとルムンバの対立により、中央政府が機能しない。治安が悪化。ベルギーは自国民保護を理由に派兵。要所を制圧。

1960年7月:ベルギーの支援を受け、チョンベが南部のカタンガ州をカタンガ国として分離独立を宣言。チョンベはカタンガ国大統領を名乗る。カタンガマンハッタン計画の材料となったウラン鉱床などでコンゴ共和国の中ではかなり豊かな地域だった。

国連が事態収拾に動く。

1/ コンゴ共和国からのベルギー軍撤退要請、2/ ハマーショルド国連事務総長コンゴへ派兵する国連軍編成の権限付与するという安全保障理事会決議143が可決。国連軍の派兵が決まった。

とは言っても国連が主権国家に軍事介入をすることは好ましくないと、あまり積極策ではなかった。

とはいえ、当然カタンガは面白くないので、ベルギー人将校や傭兵による武力強化を行う。

ルムンバ首相は国連の消極策に失望し、ソ連に近づき、武器や物流支援を取り付ける。アメリカのアイゼンハワー大統領はコンゴソ連に近づくことを快く思わない。

1960年8月:カタンガ州の北側に位置する南カサイ国も分離独立を宣言。

1960年8月:ソ連軍の軍事支援をうけ、ルムンバ首相主導で、南カサイに進軍。民間人の大量虐殺。

1960年9月:カサブブ大統領が、南カサイ大量虐殺を理由にルムンバ首相を更迭。

1960年9月:陸軍のモブツがクーデターを起こし、実権を握る。ルムンバ首相拘束。モブツはこれを契機にアメリカとの関係深化。

1960年11月:ルムンバが軟禁から脱出

1960年12月:ルムンバ再び拘束。

1960年12月:ルムンバ派が反乱軍政府樹立。(ギゼンガ政府)

1961年1月:ルムンバ元首相が処刑される。(劇中の描写はないが、一度埋められた遺体を硫酸で溶かしたらしい)

(1961年1月:アメリカ大統領にケネディ就任)

1961年2月:モブツにより、カサブブが大統領に再任命。

1961年2月:チョンベは立場の強化のために、外国人傭兵を輸入。国連平和維持軍と傭兵隊との緊張が高まる。

1961年6月:チョンベ、一時逮捕、拘留。

1961年7月:国連軍が約20,000名に増員

1961年8月:国連軍のランパンチ作戦により、カタンガ憲兵隊の武装解除、外国人傭兵の逮捕/追放

1961年9月:国連軍は、武力行使せずにカタンガの傭兵舞台を拘留するためのモーソー作戦により、カタンガ国政府幹部逮捕を目指す。「ジャドヴィル包囲戦」

1961年9月:コンゴ動乱の停戦調停に赴いていた国連事務総長ハマーショルド、飛行機事故で死去。

1961年11月:国連事務総長ウ・タント就任。米ソの了解を取り付け、コンゴ動乱に積極的に介入へ。(国連安保理決議169号:カタンガ国を認めず、コンゴ中央政府を強力に支援)

1961年12月:国連による調停も、事務総長ウ・タント経済制裁を課したことで、チョンベが交渉から撤退。

1961年12月:南カサイ国消滅。

1962年1月:ギゼンガ逮捕により、ギゼンガ政府崩壊

 

1962年12月:チョンベ大統領が、キトナ協定に署名。カタンガの分離独立放棄へ。が、挑発行為は続ける。逆に、カタンガの最大の支援国であるベルギーですら支援をためらう様に。

1962年12月:コンゴ国連軍がカタンガを占領。停戦合意。チョンベは北ローデシアに逃れる。

1963年1月:コンゴ国連軍が、チョンベ派の最後の地点を占領。カタンガ国の事実上の消滅。

1964年1月:東部のクウィル州で反乱。中央から東部地域に飛び火し、より大規模なシンバの反乱となる。

1964年7月:USとベルギーの承諾を受け、コンゴに傭兵部隊創設。通称ワイルドギースなども含まれる。(映画『ワイルド・ギース』1978英の元ネタ)

1964年8月:新憲法制定。コンゴ共和国からコンゴ民主共和国へ。カサブブ大統領がチョンベを暫定首相に任命。

1964年11月:ドラゴン・ルージュ作戦。ベルギーのパラシュート部隊がシンバ反乱軍から1800人以上の人質を奪還する作戦に成功。東部の暴動はひと段落。

1965年11月:モブツが再びクーデター。カサブブ更迭、モブツが国家元首就任。反対派を弾圧、鎮圧。コンゴ動乱終結

後に、モブツは国名をザイール変えて独裁を続ける。なお、「キンシャサの奇跡」は、1974年に行われたザイールの首都キンシャサで行われたボクシングの世界統一ヘビー級タイトルマッチ。落ち目の挑戦者モハメドアリ(当時42歳)と24連続KO勝ちで25歳のチャンピオン、ジョージフォアマンと戦い、劇的な逆転KOでアリが戴冠する試合のことだ。


1974 10 30 キンシャサの奇跡 モハメド・アリ vs ジョージ・フォアマン

2005年:ジャドヴィル包囲戦に参加したアイルランド部隊の名誉回復。