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尾形光琳300年忌記念特別展「燕子花と紅白梅」

光琳アートと称し、尾形光琳300年忌を記念してMOA美術館で開催されている展示会。尾形光琳の『紅白梅図屛風』(MOA美術館)と『燕子花図屛風』(根津美術館)という国宝屏風画を対にしてみることができるという貴重なもの。
生で見るのは初めて。
対でみるもの系だと『風神雷神図』を俵屋宗達vs尾形光琳東京国立博物館で見て以来かな。たぶん2008年の大琳派展。

二つの図屏風

屏風画というのは2.3次元なものだなと。
平面ではなく、屏風だから倒れないようにW字型に置くわけで。それによって表情が付いてしまう。きちんと見える面と見えない面ができる。より正対なものと斜めなものが混在する。大きさなどでずいぶん近しいとおもっていたが襖絵とはそこらへんが違うなあと。

光琳は抽象度(具象度)の上げ下げが面白い作家だなとおもった。
紅白梅図は主線がないのにとても具象的な幹の感じと、抽象化された川の流れ、そして抽象しかない金箔の余白、という一つの図の中で様々な抽象度をあやつっている。
被写界深度が浅く、ボケ味を生かした写真のようでもある。
燕子花のほうは、茎のあたりは色の差もなくのっぺりとしている。花の部分は塗り分けられていて、そこにフォーカスがあたっている。あとは大きな余白である金。紅白梅図よりも全体の抽象度があがっている。
紅白梅図は絵画として独り立ちしているが、燕子花のほうは、その図屏風の前で話を交わす人々が主役で、自身はあえて脇役にいるのではないかという気もする。

あるいは、その逆で、静物たる図屏風は、せわしなく生き、自分の眼の前に瞬間佇む人々を見下ろして、ただただそこにある主役ぶりを表しているのかもしれない。
というのも、ガラスにはまって光を当てられている図屏風を、ちょっと離れて見てみれば、人が逆光でモノクロの濃淡のあるシルエットだけが静かに右往左往している姿がみえたのだ。
図屏風はこういう風景を数百年見てきたのだなとおもうと、なんとも自分が小さく感じた。

フォロワーの難しさ


最新の技術を使い、保存状態も良いほうが、よいものになるとは限らないのが、アートの怖いところ。
いくつか、燕子花図のフォロワー作品をみたが、「何を見せるか」という思い切りの差がでているようにおもう。現代美術といっしょにすると、それは引用というよりもパスティーシュに近く、堂々たる何かではなく、クスッとさせる面白みの味の方が勝る感じ。
ストレートに琳派っぽいとおもったのは加山又造『群鶴図』かな。これは大好き。

粋なもの

紅白梅図屏風に、木で作った紅白の梅の花びらが散らしてあったのは、図屏風から抜けだてきたような楽しさがあった。
今年は、燕子花を所蔵する根津美術館でもこの燕子花vs紅白梅が見られるので、展示方式にも期待してしまう。

ずっと行こう行こうとおもっていけなかったので、夢が叶って嬉しい。