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見たものと、読んだもの

夢枕獏原作、谷口ジロー作画『神々の山嶺』(かみがみのいただき)

山に登るということの凄み。

ヒラリーとテンジンよりも先にエヴェレストに登頂したことがある人がいるかもしれない。その証拠かもしれないカメラに偶然出会った主人公深町。そして偶然出会った日本人かもしれない、ピカール・サンという謎の人物。ライターである深町がその「かもしれない」謎を追っていく、という山岳小説。

 

谷口の作画の素晴らしさ

氷点下30度は体験したことがある。しかし、標高が1,000mにも満たない都市郊外の山(というか丘)で、会社の人々と一緒というレベルだったので、比べ物になるとは思わない。高山であるために空気が足りないことでいろいろ異常行動をしてしまう例は数多くあるが、そんな8,000m級の山に実際に登っているかのような体験を、この作画で知ることができる。絵にすると変になりそうな幻聴や幻覚が、リアルさを持って迫ってくる。

谷口の肉体表現は本当にすごくて、とあるシーンは実写でやったら嘘くさくなりそうな描写も、筋肉の張り感などから実際にこのキャラならできるよね、と思わせてくれる。

眼福。

 

夢枕獏の構成の素晴らしさ

安心して読んでいられる。最後に色々な謎が、フィクションだからありえるところに着地するとわかっていても、途中途中の期待を裏切る流れから、最後までドキドキしながら読んでいく。

良くも悪くも昭和の匂いがする。

おそらく今、深町のような人を主人公にして山岳小説を書くことはできないのではないか、とも思う。仄暗い情念を、ダサいと思わずに突き詰めるキャラは、最近あまり見ない。

原作小説は1997年から連載されていた。バブルが弾けた後。なんとなくだが、バブルの時代は、いろんな欲望というかパワーというか、何かよくわからない力を持て余していて、それが未登頂の山や、登頂済みであっても未登頂ルートだったりに挑む原動力なのかなとも思う。もちろん、個人の資質の方が大きいとは思うが。

そういう時代の匂いが、まだそこに残っているのかもしれない。

しかし、どうなんだろう、非日常に魅せられた人の、日常に戻ってこれなさ*1は。エンターテイメントの中でだけ、そういう人を身近に感じたいのか。だとすると、どれだけ人間って日常が嫌いなんだろうねぇ。逆か。日常に不満があるけど、それを変えることが難しいと知っている人の拠り所が、こういうフィクションである、ということなのかもしれない。

 

アニメ版予告編

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Netflix が2021年に日本以外で公開、日本では今年(2022年)7月に公開。その後、日本版 Netflix でも見られるようになるのかな?

実写映画版予告編と阿部寛インタビュー

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2016年の実写映画。ヒマラヤの5,000m くらいで実際に撮影したらしい。

おまけ

ちょびっと出てくるマナスルといえば、『海街Diary』 にもエピソードがありました。

nimben.hatenablog.com

 

 

 

*1:ハート・ロッカー』(2008) を思い出させる。


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アンディ・ウィアー 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』/ Andy Weir "Project Hail Mary" (2021)

大傑作のSF小説

 

同著者の『火星の人』ないしそれの映画化『オデッセイ』*1 がお好きであれば、気に入ること間違いなし。

 

読むにあたって、主人公の一人称小説なので、主人公が知り得る情報しかない状態で始まる。よって、これ以上の情報は入れずに、読書開始を乞う。

もし、もうちょっとだけ情報を、というのであれば、題名のお話。

アメフトの最終クオーターで、負けてるチームが一か八かの大逆転を賭けて投げるロングパスのことを Hail Mary Pass*2 という。昭和の洋画紹介風にいえば「聖母マリア様にお願い*3 作戦」ってな感じ。

宇宙船らしきものが表紙のこの小説で、神頼みするような作戦って何? 一体、地球がそういう状況になっているということはどういうことで、主人公はどういう立ち位置でこれに関わるのだろう? そしてこの「大作戦」は成功するのかしないのか?

そういうハラハラドキドキが味わえる逸品です。

 

 

 

ここから、ネタバレ。

 

 

 

細かいポイントは、訳者あとがきにうまくまとまっているので、読了後に読むといいまとめとして思い出せてとてもよき。

よって個人的ポイントだけ書くと、

 

  1. 絶望的なところでも悲壮にならずにユーモアを交えて前進する主人公がかっこいい
  2. あそこでああいう判断をする主人公がいい人
  3. 数々迫り来るトラブルが、きちんと伏線とともに回収されるのが気持ちい

 

そして、

 

 

 

 

 

 

*1:『火星の人』は読んでいないのだけど、映画、面白かったです。

nimben.hatenablog.com

*2:英語版 Wikipedia による説明:

en.wikipedia.org

*3:Hail Mary = Ave Maria = アヴェマリア / 天使祝詞 というキリスト教のお祈り。

ラテン語
    Ave Maria, gratia plena,
    Dominus tecum,
    benedicta tu in mulieribus,
    et benedictus fructus ventris tui Jesus.
    Sancta Maria mater Dei,
    ora pro nobis peccatoribus,
    nunc, et in hora mortis nostrae.
    Amen.

 

英語
    Hail Mary, full of grace,
    the Lord is with thee;
    blessed art thou among women,
    and blessed is the fruit of thy womb, Jesus.
    Holy Mary, Mother of God,
    pray for us sinners,
    now, and at the hour of our death.
    Amen.

 

口語和訳
    アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
    主はあなたとともにおられます。
    あなたは女のうちで祝福され、
    ご胎内の御子イエスも祝福されています。
    神の母聖マリア、
    わたしたち罪びとのために、
    今も、死を迎える時も、お祈りください。
    アーメン。

 

なお、シューベルト『エレンの歌第3番エレンの歌第3番』

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冒頭が "Ave Maria!" で始まるため、天使祝詞にメロディを乗せたのだと私は誤解していたが、違うみたい。それでも「アヴェマリア♪」で思い起こす曲は、やっぱりこれ。

 

 

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自然と人のダイアローグ フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで@国立西洋美術館 (2022/6/4-9/11)

19世紀から20世紀のかけての日独収集のオールスター!

松方コレクションとドイツのフォルクヴァング美術館が収集していた大体19世紀後半から20世紀前半までの作品のいいところを集めて展示してある感じ。このため、超目玉の作品を中心に、と言うよりもこの年代の絵画を同時代性で俯瞰して見るような展示で、面白かった。オールスターキャストといっても題名の通り、自然を人間が見てどう思って絵画として書き残したのかという補助線が引いてある。自然といってもそれは、森とか川とか海だけではなく、人間のポートレイトも含まれる。

個人的にはリヒター展を先に見ていたので、頭の中で参照しながら鑑賞できたのは楽しかった。

Ⅰ.  空を流れる時間

モネがどっさり。今回で一番の好みは、クロード・モネ/Claude Monetとゲルハルト・リヒター/Gerhard Richterの共演。

クロード・モネ『舟遊び』1887(松方コレクション)

ゲルハルト・リヒター『雲』1970(フォルクヴァング美術館)

モネとロスコーも相性が良かった*1が、モネとリヒターも良かった。

この二つだけ、背景が白く、Iの中でも大きく浮き上がっている印象で、この二つを同時に見てほしいというキュレーターの意志を感じる。

どうやら私は、リヒターの中でも、写真を精密に模写しているように見えてぼやかして油絵で描くフォトペインティングというものが好きらしく、この『雲』をすごく推したい。

国立近代美術館のリヒター展でも、モネ『睡蓮』を彷彿とさせるアブストラクト・ペインティングがあった。リヒターがお好きなら、同時期にやっている両方を見ると楽しいかも。

 

II. <彼方>への旅

ルドンとかゴーガン *2 とか。

III. 光の建築

前半がポール・セザンヌ/ Paul Cézanne,などの印象派、ポスト印象派、後半からワシリー・カンディンスキー/Vassily Kandinsky、パウル・クレー/Paul Klee などの抽象画へと。その中でも好きだったのが:


アクセリ・ガッレン=カッレラ/ Akseli Gallen-Kallela "ケイテレ湖 / Lake Keitele" (1906)

ケイテレ湖はフィンランドの湖だそうな。画面の真ん中に大きく描かれるジグザグが素敵。

 

ポール・シニャック / Paul Signac "サン=トロぺの港 / The Port of Saint-Tropez" (1902-02)

右下の水夫さん達を拡大。こう拡大しても、キレイ。

 

シニャック "ポン・デ・ザール橋 / The Pont des Arts" (1912/13)

絵だけでも素敵なんだけど、照明が当たるとキラキラ光るのね。それが夜の月光の反射する静謐さとマッチして、とても素敵。

ジョアン・ミロ/ Joan Miró "絵画 / Painting" (1953)

注:今回は撮影禁止。昔撮った写真。

 

IV. 天と地のあいだ、循環する時間

フィンセント・ファン・ゴッホ『刈り入れ』"The Wheatfield behind Saint Paul’s Hospital with a Reaper" (1889)

耳そぎ事件が1888年12月なので、その後の作品。この辺り以降が一番ファン・ゴッホらしく感じる。黄色という楽しげな色なのに、悲しさも感じる。

他にもモネの『睡蓮』があり、特に上半分にダメージがあるものがあった。作家の意図とは違うので写真には撮らなかったが、逆にいい感じだった。これを意図的にやったのが、リヒターのアブストラクト・ペインティングなのかな〜という気もする。

その他雑感

大きい号数の展示はたくさんあったのだけど、リヒター展で感じたような、大きいからいい、という感じはしなかった。当たり前すぎるが、大きい小さいと好き嫌いは、別の話。

 

*1:

nimben.hatenablog.com

モネとロスコを並べた、テートモダン。

*2:旧称ゴーギャン。最近は現地語発音に則ってゴーガンというように変わったらしい

ゲルハルト・リヒター展(東京国立近代美術館)(2022/6/7-10/2)

東京では初めての個展。110点ほど展示されている。私はリヒターってよく知らなかったので、概要が掴めてよかった。

 

richter.exhibit.jp

配られるパンフレットも、作成年代によって色々あるキーワードの簡潔な説明があって、初心者である私にはとても嬉しかった。

いいなあ、リヒター。

没入感

特に、でかいのがいい。目の前いっぱいに聳えるように、IMAXのように壁いっぱいに使って。

意味はあるかもしれないし、ないかもしれない。自分は絵を描く人でもないので、どういう技術でこうなったのか考察するなんてできない。ただ、抽象的な絵の前にじっといて、自分がここから何を見出すのかを感じていく。

小さい作品の場合は、他のものも目に入ってしまうので、そこまで没入することはない。だから、大きくて、抽象的なものがあれば、そこにある美を純粋に楽しむことができる。

 

この見方が正しいかどうか、わからない。キューレーターのコメントを読むのは楽しいけれど、それは事実としてはいい情報だけど、それによって自分がどう感じるかは、自分だけのものだ。

 

という没入感を得られたのが、今回一番楽しかったこと。

 

カラーチャート

抽象画と具象画は、前者がベクターで、後者がラスタみたいという印象。引き伸ばした時に、極端にいうと、ただ引き伸ばすだけでOKの抽象画に対し、具象画は、細かい書き込みをしていかないといけない。そうなると、具象画は大きい意味がないと大きな号数で描いても、そんなにそそらないのかも。『ナポレオンの戴冠式』なんかは、大きいけどそれだけの意味があると思うし。

かといって、モンドリアンのようなものって、あんまり大きくはない。リヒター展の『カラーチャート』はとても大きかった。大きくても、退屈しない。ただ引き伸ばしただけだと、こうは行かないのかもね。

 

テートモダンのモンドリアン

 

今回展示があったカラーチャート

 

ビルケナウ

これは、アウシュヴィッツ第二強制収容所「ビルケナウ」/ Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau のこと。

代表作である『ビルケナウ』 (2014) とその元となったゾンダーコマンドによる写真の上に、リヒターがペインティングを施している。

『ビルケナウ』とその元の写真を同時に見ることができたのは、なかなかレアな体験だった。ゾンダーコマンドのことは、以下の映画『サウルの息子』 (2016) で知った。辛そうすぎて、見ていない。


www.youtube.com

 

nimben.hatenablog.com

英国の帝国戦争博物館の4Fがホロコーストに関するもので、ゾンダーコマンドの写真を見た時には、これを思い出した。命懸けで隠しカメラで撮った映像の被写体が、あれ、というのは。藤原新也メメント・モリ』の場合は、人の一部が野犬に加えられて持ち去られようとしているという非常にセンセーショナルな写真だった。ゾンダーコマンドのこの写真は、殺された死体がただ無機的に積み上がっているという、絶望よりもひどい無という感じ。

 

リヒターは1932年生まれの90歳。東独ドレスデン生まれ。第二次世界大戦が終わったときは13歳だから、ナチスの台頭とユダヤ人差別は物心ついているはず。1961年、ベルリンの壁ができる前に西独デュッセルドルフへ。

このため、ナチス共産主義ドイツ、自由主義ドイツの全てを体験しているということになる。

 

フォトペインティング

それとは別に、フォトペインティングという手法で、あえて写真をぼかして油絵で描くというやり方。

 

近くで見るとぼんやりしているが、遠くから見るとパッきりと見えるというのは、ベラスケス『マルス』 (1638) などがやっていて、印象派の祖先とも言われる。

Velázquez - Dios Marte (Museo del Prado, 1639-41).jpg
By Diego Velázquez - See below., Public Domain, Link

プラド美術館蔵なので、もちろんこれは来ていない。

 

近くで見ても精密に描いてあるのに、絵としてはぼんやり(Blur) しているように書くというのは、ぼんやりしているものを自分の脳の中で何か焦点を合わせようとする動きを狙っているかのように、絵が絵として完成されているというよりは鑑賞者の脳とのインタラクションを通じて完成させるような、そんな複雑なことを考えていた。

クイズを出されると、意味もなく解いてしまいたくなる、そんな気持ちを利用されている、というか。

 

おまけ:モネという補助線

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モネ『睡蓮』を連想させるようなものもあって、関係性を妄想するのも楽しい。

 

おまけ:現代アートをどう見るかは難しい

今に生きる我々にとって辛いのは、現代美術作品は多くの場合過去に作られたもの、ということだ。フォービズムもキュービズムシュールレアリズムも、20世紀中盤のものだ。今から振り返ってみたときに、何がエポックメイキングだかよくわからないという点が、特に辛い。さらに、現代美術はいろんな社会的なコンテクストが必要とされる場合が多く、特に同時代でないものについて、それを調べ上げて理解するのは難しい。頭ではわかっても、腹落ちしないことも多いので。

このため、美術評論家ではない私は、それを見た時に何を感じるのか、というとても個人的なものとして、作品と対峙することにしている。名匠の作品を古ぼけたものと認識することもあるし、コンテキストを読んでいないために興味をそそらないということもあるが、それはそれで仕方がない。

 

魚豊『チ。-地球の運動について-』(第8巻/最終巻)

収まるところに収まって、きちんと終わってくれてありがとう。

 

井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る。

15世紀という、今では考えられないほど知の流通がなされていなかったカエルは、地動説という大海を知ることはできなかった。しかし、自分がいる井戸から見上げる空の美しさを、カエルたちがそれぞれに、見知り、言語化していった物語のように感じた。

 

言葉の力と絵の力、両方が組み合わさった、マンガという芸術に相応しいものだった。

 

 

以下ネタバレ感想。

 

空の美しさと引き換えにしてもいい人生

言葉の力は、キャラクターたちの問答で発揮されている。

彼らは朴訥と雄弁に、なぜ自分がこの行動をとっているのかを語る。

それと同時に、これは、「空」と「目」のマンガだった。

「目」というか、目の表情が、と言うべきか。

人生ちょろいと舐め切っていたラファウが、得など全くない地動説に魅せられて、独房の窓から見上げた月が、

生きていてスミマセンと生きる意味を見失っていたオグジーが、巻き込まれ、文章という奇蹟に魅入られ、そして交渉材料として拷問され、刑死させられる最期に見た夜空が、

信念である金儲けの匂いを活版印刷に感じて命を賭けるドゥラカが、今際の際に賭けに負けたことを悔やんでいるときに見た朝日が、

命を賭けるに値したものだったと得心した目の表情だったのかなと思う。そしてそれは、誰に受け入れられなくても、わかってもらえなくてもいいと言うものに違いない。

合理であるからこそ自然科学は生まれているのに、合理ではない美しさや信仰や信念や感動が、その合理を追求する動機になっている点が素晴らしい。

こうやって何かを得たと思って死ねるのって、幸せな死に方だろうなあ。『鉄鼠の檻』とか、ちょっと思い出す。

 

 

悪役が素晴らしい。

ノヴァクは最期までノヴァクだった。第一巻から第八巻まで、ずっと出ている。影の主役。

悪役は、自分が正義であると思って行動しているから悪役たりうるのだと思う。自分のことを悪役と思って行動しているそれは、偽悪家と言う方がいいんじゃなかろうか。異端審問官であるノヴァクは、C教の秩序こそが正義だと思っているので、地動説をとなえる異端者は秩序を乱す悪である。

最初は自信たっぷりに異端を狩っていたノヴァクだが、ヨレンタの「刑死」から25年後、ただの飲んだくれとして描かれている。

地動説排除という仕事と、娘を地動説によって失うということが、均衡が取れなくなっている。

天道説は、説明がシンプルでなく、美しくない。*1ことから、地球と言う視点を捨てて、太陽から地球を捉えるという視点の変換を行っている。地球から見て、星が惑っているのではなく、太陽から見て楕円軌道という美しいラインを描くのと矛盾がなく、シンプルに理解できる。

アントニ司教の父は、ノヴァクに地動説は異端で殺すべきものだと教えた。

アントニが、地動説がそこまで異端な話なのかと問うた時、ノヴァクは答えられなかった。地動説が異端だと言うのは、彼の信仰の根拠は薄弱だったわけだ。地動説が異端であることをアントニに覆されたならば、彼の正義は崩れる。しかも、その正義のために、彼は自らの娘を殺したに等しいのだから。

そうなれば、彼は、アントニを殺さなければならなくなる。娘を失い、そしてどうにか均衡を保っていたプライドを誤りだとアントニは明快に証明してしまったのだから。

その後に、作者は、救済を授ける。

C教としての復活に使われる肉体が損なわれる。彼はそれを恐怖していた。しかしそれでも、彼は最期の祈りで、救われたのかも、しれない。救われていて欲しい。

 

付録

nimben.hatenablog.com

 

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地動説に対する迫害はなかったという歴史について、アントニ司教が証拠を隠滅したからというのは、素晴らしいフィクション的解決だと思う。最後はP国ではなく、普通にポーランドと言っているし。

 

 

 

 

*1:火星の逆行や満金星の説明がこじつけにしかならない