cafe de nimben

見たものと、読んだもの

ダルちゃんは、フィリップ・マーローだ。

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ダルちゃんの気持ち悪さと気持ちの良さ

ダルちゃんは、2017年秋の連載当時から読んでいたのだが、気持ち悪かった。

10話でそれがピークに達して、読むのを止めた。

気持ち悪さとは、彼女が自分で自分を殺すことを世の中とやっていくことだ、と思いこんでいるところだ。そしてそれは、しょうがないから。こういう作品は、私には気持ちが悪く、受け付けない。

完結した。名作だ。みたいなことが書かれていて、ほんとかいなと再読。

うん、確かにそうだった。それは、ダルダル星人であるダルちゃんが、自分の足で自分の言葉で自分の人生を紡ぐことを選んだからだ。

 

生きてるってことは、極めて詩的な行為なのだ、それを選択すれば

詩というのは偉大で、それは文芸的なものである以上は技巧的な部分ももちろんあるのだが、ある意味、誰にもわからなくていいから、自分はこう思うと表明できることだと思う。

谷川俊太郎の『なんでもおまんこ』なんて、いやー一瞬何を聞いたんだろうか私というような詩があったりする。

詩と写真は似ている。僕ら一般人は、別にピューリッツァー賞を取るような写真を撮るわけではない。美味しかったご飯とか、友達と一緒に自撮りとか。多分、他人から見たらどうでもいいような、ありふれたもの。でも撮る。

詩も同じで、「でも」話す、ことなんだと思う。

「ポエムかよ」というステレオタイプの蔑称がある。まあ、他人からみた価値は、ネガティブなものになってもいい。あえて言っている陳腐なことは、やっぱり往往にして陳腐で、他の人から見て、どうでもいいものであることの方が多いのは、厳しいけど現実だろうから。

でも、本当に自分がこう感じたという世界と触った自分の感覚は、誰がどう言おうと嘘ではない。もう消えてしまったかもしれないが、確かにそこにあったものだ。

もしそれがなくなったら自分でなくなるなら、そこは何があっても守るところだろう。それがいろんな犠牲を伴うにしても。

あまりにもフィリップ・マーロー的な

いい詩っていうのはね
本当のことが書いてあるなぁって思うのよ
心がね
気持ちがすごくほんとうだなって
そう思うの
生きていると
社会で生きているとね
私たちは
悲しいのに笑ったり
寂しいのにすましたり
悔しいのに平気な顔をして
自分のほんとうの気持ちを置いてけぼりにしちゃって
だんだんと自分が何を考えているのかもわからなくなって
だから
詩に表れる生の言葉に
ほんとうの気持ちに
心動かされるんだって思うのよ
だから私は詩が好きなの

サトウさん。21話。

 

ダルちゃんは、自分が何を考えているかわからなくなっていたことに気が付いた。自分が何を考えているのかわからないのは、自分が自分で自分の気持ちを置いていけぼりにしていたからだと、気が付いた。

気が付いたら、もうそれを殺すことができなくなった。それがある意味、24年間何とか身につけてきた社会との関わりの仕方だったり、別の大事な事や人かもしれないけれど。辛いかもしれないけれど。

それって、フィリップ・マーローじゃん? ハードボイルドじゃん?

タフでなければ生きて行けない。
優しくなれなければ生きている資格がない。

If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(生島治郎訳)

 

タフにならなければ、残念ながら生きていけない。そこには同意しかない。
タフさを方向を履き違えて、自分が自分でなくすると、自分で生きていく資格を返上してしまうような気がする。

 

To say Good bye is to die a little.

ダルちゃんだと「擬態すると、ちょっとだけ死ぬ」、かな。

 

そして49話で、

空はどこまでも高く
街はきらめき
世界は美しい
私は
自分で自分をあたためることができる
自分で自分を抱きしめることができる
それが
希望でなくてなんだろう

とダルちゃんは、自分の足で歩くことを決める。自転車でいうと補助輪が外れたところ。

タフに、ジェントルに、自分の足で、歩いて行け。